江戸後期になると、粉本主義に陥った狩野派が精彩を欠くなか、文人たちの興味は、新たに中国大陸からもたらされた南画に移っていった。二豊(豊後と豊前)においても、田能村竹田(1777-1835)より一世代前の画人たちが求めたのは同様の絵画だった。
豊後岡藩に備中の画家・淵上旭江(1753-1816)が訪れたのはその頃である。旭江は、各地の名勝を訪ねながら、長崎を目指したと思われる自由な身分の画人だった。岡藩の文人たちはこの遠来の画人を歓待し、画技を学んだ。旭江に直接学んだものとしては、のちに岡藩絵師となる淵野真斎と、終身町絵師として活動した渡辺蓬島がいる。また、二人と共に学んだ小林藍溪(不明-不明)は、佐伯で最も古い画人のひとりとされ、旭江の来遊を聞きつけ、はるばる佐伯から岡まで足を運んだものと思われる。
また、中津の田中田信(1748-1825)もかなり早くから南宗画法を意識していたと思われる。田信は、医業のかたわら、書画骨董を好み、唐風に親しんだ。自ら描く画も唐風を模し、京坂の間を行き来して池大雅らと交遊、画法を研究した。また、料理研究家でもあり、日本で最も古いとされる中華料理書を出版している。日田の豪商・森五石(1747-1822)も、雪舟派から新たに南画に転じ、南蘋派の技法を学んだ。五石は後年、田能村竹田とともに社を起こし、日田画壇の基礎を作った。
田中田信(1748-1825)
寛延元年生まれ。実家は中津の商家。名は信平、字は子孚、のちに以成。別号に田子孚がある。長崎で医学や画法を学んだとみられる。医業のかたわら書画をよくし、印刻、碑碣などの彫刻、板画彫刻なども得意だった。唐風を好み、家具や文具なども唐風にしていた。唐風料理を重んじ、卓子式と号して中華料理書を著述出版した。これがわが国におけるもっとも古い中華料理書とされる。若いころから京坂の間を行き来し、池大雅らと交遊、県内では末広雲華、田能村竹田らと交流があった。竹田とは岡に訪ねるほどの仲で、竹田の『竹田荘師友画録』にもその親交が記されている。文政7年、77歳で死去した。
森五石(1747-1822)
延享4年生まれ。初代伊左衛門の長男。名は常勝、通称は三良左衛門、のちに二代伊左衛門。俳号に梅舎を使い、狂歌号に登果亭栗丈を用いた。別号に准陰漁叟、悠然亭がある。享和3年、57歳の時に家督を長男・春樹に譲り、悠然亭に隠棲したが、文政5年には、町三老の筆頭にあげられて町年寄役をつとめた。文政5年、76歳で死去した。
小林藍溪(不明-不明)
岡の淵野真斎、渡辺蓬島とともに淵上旭江に学んだ。佐伯における最も古い画人のひとり。のちに大坂に遊び、画技を進めた。竹田とも交流があり、『竹田荘師友画録』には、唐橋君山が豊後国志を編纂する際、竹田も同行して佐伯に行き、藍溪に交歓された旨が記されている。
大分(8)-画人伝・INDEX
文献:大分県画人名鑑、大分県史、竹田荘師友画録