豊前中津藩では、円山派の絵師・片山九畹が、天明5年に「御絵師御茶之間詰」に任命されている。九畹は別号に東籬があり、東籬は片山家歴代龍名の号らしく、子の九皐もまた東籬と号した。九皐の子・藤憧も父に学び、東籬と号し、藤憧の子・藤一も父のあとを継いで画をよくし、家流の円山派を継いだ。
中津藩江戸詰の家臣・大西圭斎は、たびたび中津藩の御用をしていたが、藩絵師だったかどうかは定かではない。そのほか、中津地方には、田中田信、末広雲華らの画人が出ており、『竹田荘師友画録』に登場する曽木墨荘、津田小石らが画をよくした。
片山九畹(不明-不明)
中津藩の画員。本姓は千原氏。名は弘、または藤弘。別号に東籬がある。京都に出て円山応挙の門で画を学んだ。師の姓をもじって、姓を片山と称して、家姓に改めた。中津藩儒者・倉成龍渚と親交があった。
片山九皐(不明-不明)
中津の人。片山九畹の子。東籬と号した。父に画の手ほどきを受けたのち、円山応挙にも学んだ。
大西圭斎(1773-1829)
安永2年江戸生まれ。中津藩江戸詰家臣。名は允、または西允。字は叔明。別号に幽溪、一簑烟客、小痴道人、再生翁などがある。家は代々中津藩家臣。画ははじめ沈南蘋の画を模し、のちに宋紫石・宋紫山に師事し、その後、谷文晁に学んだという。門人に岡本秋暉、矢島群芳らがいる。文政12年、58歳で死去した。
大西仙洲(不明-不明)
大西圭斎の子。父の後を継いで、画をよくした。別号に酔仙がある。はじめ江戸藩邸に仕え、維新後は中津に住んだ。明治9年頃に中津市学校の書道教師をつとめた。その後、再び東京に移住した。
津田小石(1790-1872)
寛政2年生まれ。中津藩執政。藩士・丸岡東馬の子で、藩士・津田以貞の養子。幼名は雅之助、のちに伊恵次郎。名は苑曹、または粛。字は以義、通称は半蔵。藩務のかたわら詩文、画をよくした。田能村竹田と親交があり、大坂では岡田半江、貫名海屋らとも交流があった。明治5年、83歳で死去した。
大分(6)-画人伝・INDEX
文献:大分県画人名鑑、大分県史、大分県立芸術会館所蔵作品選図録