越後国中頸城郡三和村(現在の上越市)の農家に生まれた東洋越陳人(1836-1916)は、7歳の時に荻野退治の塾に入り経史を学んだ。漢詩の暗誦と習字が得意で、子どもとは思えない絵を描いていたという。本人は画家志望だったが、両親の願いもあり20歳の時に蒲原郡亀田の医師田中家に婿に入ったが、2年後に離婚を申し出て郷里に戻った。
その後長崎に行き2年間留まり、多少医学は学んだが、画家になるという夢は満たされず、失意のうちに長崎を出て、江戸、京都を流浪して2年余りしてから帰郷した。
目標が曖昧なまま郷里で過ごしていたが、ふと手にとった森蘭斎の著書「蘭斎画譜」に刺激を受けて啓発され、28歳の時に再び決意を固めて長崎に行き、鉄翁祖門、木下逸雲に師事、鉄翁から「越後には珍なる力量」と賞され、これが雅号の由来となった。
長崎を出てからは、九州、長州、山陽、越中、加賀など遊歴を重ねたが、帰郷してからは没するまで故郷を離れず、地元の自然を画題とした。晩年は奇行が目立ち、酒の合間に筆をとったという。
また、磯野霊山(1878-1932)は、九州佐賀に生まれ、東京美術学校卒業後、権力争いを繰り返す中央画壇に嫌気がさし、長岡・高田に10年余り新聞記者として滞在した。晩年の越陳人をたずねて深く心酔し、私淑したエピソードが残っている。東京に戻ってからは小川芋銭と生涯にわたり交流を続けた。
東洋越陳人(1836-1916)とうよう・えっちんじん
天保7年中頸城郡三和村生まれ。本名は服部郡平。別号に謂公、芸山外史がある。長崎で鉄翁祖門、木下逸雲に画を学び、鉄翁から越陳人の号を与えられた。九州・中国地方を漫遊し、明治10年に帰郷した。明治15年全国絵画共進会に出品。明治19年からは直江津町五智(現在の上越市五智)に住んだ。酒好きで奇行が多かった。大正5年、81歳で死去した。
磯野霊山(1878-1932)いその・れいざん
明治11年佐賀県杵島郡橘村片白(現在の武雄市橘町)生まれ。幼名は寿吉。別号に露聲がある。明治40年東京美術学校を卒業。翌年創立間もない高田日報に入社し、大正6年長岡日報に移るまで兵事記者として活動した。この間、日本スキー発祥期に遭遇し、大院君のペンネームで多くの記事・スケッチ類を残した。昭和7年、53歳で死去した。
新潟(18)-画人伝・INDEX
文献:久比岐野画人展-地元で活躍した美の先駆者たち-、三和村史 通史編、越佐書画名鑑 第2版