画人伝・新潟 南画・文人画家 山水・真景

北越戊辰戦争に参戦し自刃した勤皇の画家・村山半牧

村山半牧「山水図屏風」

村山半牧「山水図屏風」

越後国蒲原郡三条町(現在の新潟県三条市)に生まれた村山半牧(1828-1868)は、幼いころから画才を発揮し、17、8歳頃から父の郷里である小須戸町村の書塾で教えながら、墨竹などを描いていた。19歳の時に、江戸から帰郷していた長谷川嵐渓に師事し、翌年嵐渓に伴って江戸に出て、嵐渓宅に住み込んで南画の画法を学んだ。

22歳の時に嵐渓の帰郷に伴って三条に帰ったが、26歳頃に長崎に赴き、鉄翁祖門、木下逸雲らに師事、さらに京都に移り、その後も山陽、山陰、九州に遊んで各地の奇勝を探り、古今の名蹟を実見して知識を広め、明清の画を研究して画技を進め、再び京都に戻った。

京都では、藤本鉄石、山中信天翁、江馬天江らと交流して尊皇攘夷の教化を受け、時局を憂い議論した。そんななか、文久3年に師と仰ぐ藤本鉄石が天誅組の乱を起こして敗死し、播磨でその報を聞いた半牧は、同郷の筒井香山(1843-1869)と諮って鉄石の妻子を備前に避難させ、自身は後事を恐れて故郷に帰った。

帰郷後は、三条の読古書堂に隠居し、作画のかたわら、小柳春堤、雛田松溪、星野藤兵衛らと尊皇攘夷を論じ、藤田東湖や吉田松陰の遺文を刊行した。また、敬慕する良寛の歌集編集も手がけた。そして慶応4年、北越戊辰戦争に参戦し征討軍に協力したが、身近に危険が迫ったため自らの最期を悟り、城山の麓で自刃して果てた。

村山半牧(1828-1868)むらやま・はんぼく
文政11年蒲原郡三条町古城町生まれ。名は椒、幼名は周市、字は仲直、のちに秀一郎と称した。別名に其馨、別号に荷汀散人がある。幼時から画才を認められ、長谷川嵐渓に師事した。成人してから関西、九州、山陰を巡って見聞を広めた。京都では藤本鉄石らと知り合い、文学的・思想的に影響を受けた。文久3年に藤本鉄石が天誅組の乱を起こして敗死した翌年に帰郷。その後起こった北越戊辰戦争中、北陸道鎮撫使に越後平定策を提出するなど西軍に加担したため、幕軍に追われる身となり、潜伏先に訪ねてきた弟から同志が処刑されたという誤報を聞き、慶応4年、蒲原郡内町村の隠れ家で自刃し41歳で死去した。

筒井香山(1843-1869)つつい・こうざん
天保14年頃蒲原郡木戸新田村生まれ。名は健、字は健行、通称健吾。13歳の時に京都に上り、同地に滞在していた村山半牧に師事して画を学んだ。半牧と親交していた藤本鉄石にも師事した。文久3年の天誅組の乱で鉄石が敗死した際には鉄石の妻子を京都から脱出させ、備前まで送り届けた。翌年、半牧とともに帰郷したが、慶応4年、半牧の自刃の報を受けて悲嘆にくれ、同年病をおして鉄石の妻を岡山に訪ねる旅に出るが、その途中、明治2年、赤穂において27歳で死去した。

村山半山(1858-1884)むらやま・はんざん
安政5年蒲原郡三条町生まれ。村山遯軒の二男。村山半牧の甥、その後養子となった。名は恒、子恒、通称は恒二郎。幼いころから学問を好み、叔父の村山半牧に愛されて育った。慶応4年、半牧の遺言によりその嗣子となった。明治5年に上京し、東京府庁につとめ、片桐省介に預けられた。そのかたわら大橋訥庵に師事した。叔父の半牧や父の遯軒の影響を受けて書画・詩文にすぐれた。明治17年、27歳で死去した。

新潟(11)-画人伝・INDEX

文献:三条市歴史民俗産業資料館所蔵作品集、越佐の画人、にいがた幕末の絵師、越佐書画名鑑 第2版




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