嘉永6年(1853)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れると、松代藩は品川に設けられた台場の警衛を担当し、翌7年のペリー再来航でも、横浜に設けられた応接場の警衛を小倉藩とともにつとめた。当時の松代藩主は九代の真田幸教(1836-1869)で、幸教は自ら江戸湾防備を担うことを幕府に願い出たとされる。
松代藩の八代藩主・真田幸貫(1791-1852)は、幕府の老中をつとめ、海防にも取り組んでいた。幸貫は内々に松代藩士・佐久間象山に海外情報の調査を命じ、有事に備えていたが、ペリー来航の前年に没したため、松代藩の横浜応接場警護は幸教のもとで行なわれた。
幕府とアメリカ側の交渉は一ヶ月に及び、その間に大宴会やショーなど様々な交歓が行なわれた。幸教はその様子を記録に残すため、内々に二人の藩士に命じて、応接場に入り込ませた。ひとりは医師の高川文筌で、もうひとりは能役者の樋畑翁輔だった。
高川文筌(不明-1858)は、武蔵国所沢に生まれたが、松代藩の医師である高川家の養子となり、家業を継いで藩の医師をつとめていた。一方で谷文晁に学び、幸貫や幸教のもとで山水画や人物画を描くなど絵の御用もつとめていた。
樋畑翁輔(1813-1870)は、代々真田家に仕える江戸住まいの能楽の家に生まれ、能役者として藩に仕えていた。絵は余技として歌川国芳に学んだとされる。二人とも絵師が本職ではなかったが、絵の才能を高く買われて命が下ったと思われる。
二人は秘密裏に会場の様子やペリーらを写生するため、絵師としてではなく、文筌は出席者の一人である伊沢政義の付き添い医師として、翁輔はその薬駕籠持ちとして応接場に入った。しかし、ペリーらはすぐに気が付いたようで、その時の様子を高山は「彼らはさとって近り、自分の肖像をかけという。数枚写して与えると、よろこんで握手した」(「明治事物起原」より)としている。
また、幕府の役人がアメリカ艦船・ポーハタン号に招かれた際にも文筌は同行していたとみられ、艦内で開催されたミンストレル・ショーを「米利堅船中燕席歌舞図」(下記掲載)などに記録している。ミンストレル・ショーとは、白人が顔や手を黒く塗り黒人に扮して歌ったり踊ったりするショーで、当時アメリカで評判だったという。
高川文筌(不明-1858)たかがわ・ぶんせん
武蔵国所沢生まれ。松代藩士。伊沢美作守の家来・三上庄兵衛の子。名は森嶺、諱は惟文、別号に可学斎、水竹居がある。谷文晁に学び、師に一字を与えられて文筌と号した。嘉永3年、松代藩医師・高川泰順の娘と結婚し養子となって泰森と名乗ったが、多くの場合文筌の号を用いた。その後、養父の跡を継ぎ、藩の御側医師をつとめたが、そのかたわ八代藩主・真田幸貫や九代藩主・真田幸教のもとで山水画や人物画を描くなど絵の御用もつとめた。嘉永7年のペリー再来航にあたり、松代藩が小倉藩とともに横浜に設けられた応接場の警衛をにつとめた際には、医師として同席し、応接場の様子やペルー一行の写生をした。安政5年、40歳くらいで死去したと伝わっている。
樋畑翁輔(1813-1870)ひばた・おうすけ
文化10年江戸深川生まれ。松代藩士。能役者として藩に仕え、鼓の技は奥義に達していたともいわれている。絵は余技として歌川国芳に学び、俳諧も好んだ。嘉永7年ペリー来航時には、横浜の応接場に高川文筌とともに入り、当時の様子をスケッチした。文久2年に病気のため江戸詰めを解かれ、松代に下向した。明治3年、58歳で死去した。
長野(8)-画人伝・INDEX
文献:松代藩と黒船来航、松代藩の絵師-三村晴山