宮崎を代表する画家に、既成の美術団体や権威主義を拒否し、独学で前衛表現の道を切り開いた瑛九(1911-1960)がいる。宮崎市に生まれた瑛九は旧制宮崎中学校を中退し、14歳で上京、日本美術学校に入学するが、ここも1年あまりで退学した。この頃から美術評論を手がけるようになり、16歳で「アトリエ」「みずゑ」などの美術雑誌に美術評論を執筆、その後も制作と評論を並行して行ない、フォト・デッサン、油彩画、エッチング、リトグラフ、ガラス絵など、幅広い分野で常に新しい技術を用いた表現を試みた。
16歳で美術評論家デビューした瑛九は、宮崎と東京を行き来しながら油絵の制作にも取り組んだ。しかし、公募展では思うような結果が出せず、19歳の時にオリエンタル写真学校に入学、写真技術の基礎を固めるとともに、写真評論も始めた。その後も宮崎で油絵の制作にはげむが、帝展、二科展など、どれも落選した。25歳の時にデッサンと印画紙を使った「フォト・デッサン」を創始、作品集『眠りの理由』を刊行し、その幻想的表現が注目を集めた。この時から瑛九(Q・Ei)の名を使うようになった。
26歳の時に抽象美術を標榜する自由美術家協会の創立に参加、第1回展にフォト・コラージュによる「レアル」シリーズを出品した。この頃、ガラス絵、点描による作品、油彩による抽象作品を制作していたが、その後、印象派的な写実に取り組んだり、東洋的なものへの回帰を見せるなど、模索の時代が続いた。
40歳の時に自由と独立の精神で制作することを主張し、デモクラート美術家協会を結成。この年に埼玉県浦和に転居、ここを生涯の地とした。この時期には、エッチングやガラス絵を制作するとともに、リトグラフによる実験的表現にも取り組み、エア・コンプレッサーによる吹き付けの作品も制作した。表現は次第に点描に移行、抽象的な油彩作品を多数制作していたが、病に倒れ48歳で死去した。
瑛九(1911-1960)
明治44年宮崎市生まれ。本名は杉田秀夫。眼科医・杉田直の二男。父の直は作郎と号した日向俳優の先駆者で、祖父は国学者であり歌人だった。大正13年旧制県立宮崎中学校に入学したが1年で中退して上京、日本美術学校洋画科に入学し油絵の制作を始めたが、ここも1年あまりで退学した。この頃から、「アトリエ」「みずゑ」などの美術雑誌に美術評論を執筆した。昭和5年、オリエンタル写真学校に入学、写真評論も手がけた。昭和10年郷里の宮崎で「ふるさと社」を結成。翌年フォト・デッサン集「眠りの理由」を瑛九(Q・Ei)の名前で発表。昭和12年自由美術家協会の創立に参加するが、翌年退会。昭和15年再び自由美術家協会展に出品して会友となるが翌年再び退会、昭和24年自由美術家協会会員に復帰した。昭和26年自由と独立の精神で制作することを主張しデモクラート美術家協会を結成。この年、埼玉県浦和に転居、生涯の地とした。昭和35年、48歳で死去した。
宮崎(31)-画人伝・INDEX
文献:瑛九とその仲間たち展、瑛九とその周辺、瑛九 フォト・デッサン展、モダニズムの光跡、浦和画家とその時代