宮崎県を代表する日本画家に都城の山内多門(1878-1932)がいる。多門は、西南戦争の翌年である明治11年に都城市に生まれ、郷土の狩野派・中原南渓に画法を学んだ。その後、小学校の教師となるが、日本美術院の機関紙『日本美術』を見て触発され上京、川合玉堂の門に入り、その1年後には、玉堂の勧めで玉堂の師である橋本雅邦に師事した。
雅邦門下で学んでいた多門の最初の号は都洲といった。この号を使っていた頃の絵は、雅邦の影響が色濃く見え、主なテーマは人物だった。その後、雅号を本名の多門にするのを機に、それまでの人物画をやめ、本格的に山水画に取り組むようになった。明治40年に創設された第1回文展では「驟雨之図」(掲載作品)が三等賞になり、それ以後は山水画家としての道を歩んでいく。
実直に画技を高め、文展でも受賞を重ねるなど、地位を確立していった多門だったが、画壇における多門の評価は厳しいものだった。多門の没後にその不遇の理由を分析した小林源太郎は、論文「山内多門の画跡」の中で「彼の北宗の筆技と顔料殊に岩絵具の装飾的効果との矛盾は遂に容易に彼のうちに調和することが出来なかった」としている。時は横山大観らが文展を離れて再興した日本美術院の新しい潮流へと向かっており、大観らが提唱した朦朧体は、当初は批判を浴びていたが、次第に市民権を得るようになっていた。
苦悶の中にいた多門だったが、重ねて大病を患い、二ヶ月以上生死の淵を漂うこととなった。病が癒え、改めて自分と向きなおした多門は、時流の向かうところと自己の資質を生かせる場所が同じではないことを悟り、新たな挑戦へと向かう。新たな挑戦といっても、時流の好む革新に取り組むということではなく、あくまでも自己の筆技を深め、新しい表現を試みるというものだった。つまり、わが道を行き、新たな境地を開拓していこうとしたのである。その後の多門は、取材の場所を朝鮮半島の金剛山、あるいは中国へと求め、荘厳な山水画を生み出していった。
山内多門(1878-1932)
明治11年都城市上東町生まれ。都城島津家家臣・山内勝麿の三男。初号は都洲。多門は本名。別号に都洲、空谷子、起雲閣、蜀江山房、自足子、藪谷山樵がある。兄が二人いたが、西南戦争で戦死したため、山内家を継いだ。明治26年、16歳の時に狩野派の中原南渓に師事した。明治27年から都城尋常高等小学校で教職につくが、明治32年に日本美術院の機関紙『日本美術』を見て触発され上京、上原勇作の仲介で川合玉堂の門に入った。同年第7回日本絵画協会絵画共進会で三等褒状を受賞。明治33年に玉堂の勧めで橋本雅邦に師事した。明治36年日本絵画協会で銅賞を受け、その後も日本絵画協会、日本美術協会、二葉会の展覧会で受賞を重ねた。明治40年第1回文展で「驟雨之図」が三等賞になり、以後、文展、帝展、巽画会、その他多くの展覧会で活躍した。帝展では第9回を除いて第2回から第10回まで審査委員または審査員をつとめた。第5回文展で主席三等賞になった「日光四季」は文部省買い上げとなった。大正9年に朝鮮半島、大正11年には中国を旅し、その取材をもとに山水画の新しい表現を試みた。昭和5年には明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「中国西国巡幸鹿児島着御」を描いた。門人に大野重幸がいる。昭和7年、54歳で死去した。
宮崎(17)-画人伝・INDEX
文献:没後60年記念山内多門回顧展、山内多門生誕130年展、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展