宮城県松山町に生まれた渡辺亮輔は、中学校卒業後に上京し、東京美術学校西洋画撰科に入学した。1年後輩には青木繁や熊谷守一らがいた。在学中は、フランスから外光表現を移入した黒田清輝の教えを受け、黒田が主宰する白馬会にも出品した。黒田の画風は、明るい外光表現と影の部分に紫色を多様したことから紫派(新派)と呼ばれ、それに対する明治美術会系の画家たちの脂派(旧派)と、明治後期の洋画壇を二分して競合していた。
渡辺は、卒業後は白馬会系の画風を離れ、旧派の中村不折のもとに出入りしていたが、その後再び黒田のもとに戻っている。明治40年の第1回文展に入選した「樹陰」の表現からも、白馬会の外光描写に復帰していたことがうかがえる。
その「樹陰」は、初めはもっと大きな画面に全身像を描いていたのだが、この頃に肺を患ったこともあり、全身像として完成することができず、画布を切断して半身像の作品として出品したという。父が上京して郷里に連れ戻したため、渡辺自身は自作が展示された文展を見ることはできず、4年間の闘病の末、30歳で死去した。
渡辺亮輔(1880-1911)わたなべ・りょうすけ
明治13年宮城県松山町生まれ。医師・渡辺宗伯の長男。明治32年宮城県尋常中学校を卒業し、同年東京美術学校に入学。黒田清輝のもとで学んだ。明治36年同校西洋画撰科を卒業後、報知新聞や日本新聞で挿絵を描きながら作品制作を続け、明治40年に第1回文展入選。その後、病気のため帰郷し、河北新報にも挿絵を寄せた。明治44年、30歳で死去した。
宮城(21)-画人伝・INDEX
文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝、宮城洋画人研究、宮城県美術館コレクション選集