
狩野松栄「四季花鳥図屏風」(右隻部分)白鶴美術館蔵
永禄2年、狩野派発展のために尽力し続けた狩野元信が83歳で没し、その家督は三男の松栄が継いだ。その時点ですでに長男の宗信は没していたが、二男の秀頼は健在で、さらに養子先から狩野家に戻ってきていたと思われる。それにもかかわらす、あえて元信は松栄を選んだということになる。
この異例ともいうべき人選の真意を伝える史料は何もないが、その後、松栄が40代の働き盛りで長男の永徳に家督を譲渡していることや、元信が幼い永徳に大きな期待を寄せていたことなどから、永徳が一人前になった時点で狩野宗家を継がせることを条件に、松栄を後継者に指名したのではないかと推測されている。
松栄の活動は、元信没後から本格的に始まったとみられ、永禄6年に巨大な「涅槃図」を大徳寺に寄進したのをはじめ、永禄12年には大友宗麟の招きで九州に向かう途中、厳島神社に羅城門図絵馬を奉納している。また、作期は未確定だが、永徳と共同で手掛けた聚光院障壁画は、松栄の画業を代表するものとなった。
松栄は、父の元信や子の永徳のように時代をリードするような存在ではなかったが、天才の呼び声高い永徳に若くして家督を譲ってその活躍の場を整え、桃山期の狩野派を隆盛に導いたことから、狩野派繁栄の陰の功労者とも評されている。
狩野松栄(1519-1592)かのう・しょうえい
永正16年生まれ。狩野元信の三男。狩野永徳の父。本名は直信、または幹信、通称は源七郎、大炊助。剃髪後に松栄に改号。足利義輝に仕え、民部少輔となり、のちに法眼に叙された。画を父に学び、狩野宗家を継いだ。文禄元年、74歳で死去した。
京都(52)-画人伝・INDEX
文献:狩野永徳と京狩野、狩野派決定版、室町時代の狩野派、日本画家人名事典







