画人伝・鹿児島 宗教画

信仰と作画が一体化した作品を残した野津無人相菩薩

野津無人相菩薩「楊柳観音図」鹿児島市立美術館蔵

江戸後期に入っても、薩摩では依然として狩野派が大きな勢力を占めていたが、そのなかにあって、いずれの画派にも属さない画人として野津無人相菩薩(1726-1797)がいる。野津無人相菩薩は、薩摩藩士の子として生まれ、子どものころから深く仏教を修め、13歳の時に剃髪して仏門に帰依した。生涯独身を通し、修行と作画に専念したと伝わっている。絵は独学で、仏画などを見よう見まねで描いていたと思われる。

世事を意としない「奇異ノ人」で、常人とは異なる行動をとっていたとも伝わっている。橘春暉著『北窓鎖談』によると、仏画を描いては信心の篤い人に与え、また、他国から訪ねてきた修業僧にも自作の仏画を与えていたという。

野津無人相菩薩の作品は、経典の文字を書き連ねて仏の像を描くという手法が用いられている。「楊柳観音図」(掲載作品)は、白衣の陰影や顔の輪郭が淡墨で施され、その上からびっしりと経文が書き込まれている。野津無人相菩薩にとって作品を制作することは写経の心でもあったわけで、絵を描くことは精神修業の一環であったと思われる。

野津無人相菩薩(1726-1797)
享保11年生まれ。薩摩藩士・野津正太左エ門親永の子。名は親倍、はじめ八兵衛と称し、のちに藤兵衛と改めた。13歳の時に松原山南林寺の賢悦和尚のもとで剃髪。元文5年、15歳の時に野津藤内の養子となった。深く仏道を修め、自ら大観自在無人相菩薩、明照如来と称した。代表作に「十六羅漢図」「三尊官」「楊柳観音図」などがある。寛政9年、72歳で死去した。

鹿児島(16)-画人伝・INDEX

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考




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