京都で四条派を学んだ平山東岳は、人物画、花鳥画、山水画など幅広いジャンルの作品を数多く残しているが、その一方、幕末明治の混乱期の薩摩にあって、薩英戦争が勃発すると、決死隊(西瓜売り部隊)の一員として英国軍艦に乗り込み、戊辰戦争の際には第六番大隊の監軍として軍功をおさめ、その戦功によって部屋住みの身分から新たに平山家を興すことを許されている。
また、東岳は藤島武二の最初の師としても知られている。藤島の画業は、明治15年から在学した県立鹿児島中学校で東岳に学んだことから始まっているが、明治16年に東岳が東京に移ったその翌年には、藤島も絵画の勉強を志して上京している。藤島が東岳を頼って上京したかどうかは定かではないが、一年で帰郷した藤島は翌年また上京し、師と同じ四条派の川端玉章に師事していることから、影響は続いていたと思われる。
平山東岳(1834-1899)
天保5年上荒田生まれ。平山作右衛門の二男。幼名は龍助、のちに季雄と改めた。初号は千穂。幼いころから画を好み、地元で四条派の絵師・甲斐東渓に学んだのち、京都で長谷川玉峰、塩川文麟の門に入ったとされる。国学を江戸の平田銕胤に学び、深く霧島神宮を尊崇した。明治2年、種子島の地頭職に挙げられた。明治16年宮内省御用掛となり、筥崎八幡宮に蒙古襲来図を奉納した。明治32年、66歳で死去した。
鹿児島(26)-画人伝・INDEX
文献:黎明館調査研究報告第16集(絵師平山東岳の経歴について)、黎明館収蔵品選集Ⅰ、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース