長町竹石の高弟として知られる佐々木雲屋(1776-1831)は、幼いころから画を好み、竹石に師事して絵事を学び、「虹の滝」の席画が認められて藩主に召し抱えられた。山水、竹、花などを得意とした。「竹を描き、その下に岩」「岩に蘭」が雲屋の特長的画風と言われる。雲屋に師事した兒島竹處(1805-1868)も多くの門弟を持ち、『讃岐画家人物誌』の著者・松原竹坡をはじめ多くの画人を育て、竹石の画法を伝えた。長町竹石、兒島竹處、松原竹坡の3人は「讃岐の三竹」と称された。
佐々木雲屋(1776-1831)ささき・うんおく
安永5年頃生まれ。香川郡鶴市の人。名は九萬、字は鵬程、通称は萬九郎。別号に鶴市山房がある。幼いころから画を好み、長町竹石に師事、篆刻を阿部良山に学んだ。山水、蘭竹を得意とした。天保2年、55歳で死去した。
兒島竹處(1805-1868)こじま・ちくしょ
文化2年高松生まれ。名は衡、字は久芳、通称は休三郎、大五郎。別号に静園、廼吾廬、小畫禪室などがある。佐々木雲屋に師事して六法を受け、のちに清の兪数亭の画に倣い、また倪董の筆意を取り入れ、一家をなした。慶応4年、63歳で死去した。
松原竹坡(1845-1920)まつばら・ちくは
弘化2年高松城下南新町生まれ。文房具商・阿波屋保平の子。諱は熊、字は子祥、通称は熊次郎、のちに勘五郎。書を国方逸民に、画を兒島竹處に、詩文を片山冲堂に学んだ。明治の末頃に店を譲り、天神前に移り間仙居と名付け、詩や画をかいて暮らした。長町竹石の画法を正しく守り、大成した。著書に『墨禅要語』、『讃岐画家人物誌』がある。大正9年、76歳で死去した。
西原舜玉(1796頃-1871)にしはら・しゅんぎょく
寛政8年頃生まれ。名は美加、のちに松榮尼と改めた。西原竹屋の妻。京都の宇都宮秀壽の娘。佐々木雲屋に学んで、山水をよくした。明治4年、76歳で死去した。
山田(1823頃-1902)さんでん
文政6年頃生まれ。僧侶。本姓は岡。空山綾歌郡山田村永覺寺の住職。兒島竹處に師事し、山水、四君子をよくした。明治35年、80歳で死去した。
墨痴(不明-不明)ぼくち
僧侶。本姓は福井。名は到句に國。兒島竹處に師事し、山水、蘭竹をよくした。
梶原水田(1827頃-1874)かじわら・すいでん
文政10年頃生まれ。名は景明。木田郡水田村の人。兒島竹處に師事し高弟とされた。山水、四君子を得意とした。明治7年、48歳で死去した。
原蓼江(1833頃-1892)はら・りょうこう
天保4年頃生まれ。通称は友三。別号に醉香がある。綾歌郡宇多津町の人。詩文を尾池松湾、日柳燕石に学び、書法を富家松浦に学んだ。はじめ画を鮎川一雄に学び、のちに兒島竹處に師事し、山水、蘭竹をよくした。明治25年、60歳で死去した。
蘆澤蘭處(1837頃-1878)あしざわ・らんしょ
天保8年頃生まれ。名は元布、通称は水澄。別号に蘆洲がある。兒島竹處に師事し、また篆刻もよくした。明治11年、42歳で死去した。
藤田南巷(不明-1891)ふじた・なんこう
大川郡引田村の人。兒島竹處に師事した。明治24年死去した。
兒島竹外(1845頃-1893)こじま・ちくがい
弘化2年頃生まれ。名は九成、通称は九平。兒島竹處の子。茶事に精通し、画もよくした。明治26年、49歳で死去した。
香川(6)-画人伝・INDEX