小松砂丘(1896-1975)は、金沢市に生まれ、13歳で木地挽物師に徒弟奉公し、木地職人として挽物業に従事するかたわら、俳諧に親しみ、さらに、俳画、日本画、焼物、篆刻などにも多彩な才能を発揮した。その軽妙洒脱な人柄から、多くの人々に「金沢最後の文人墨客」と呼ばれ慕われたという。
欲もなく清貧のなか創作活動を行なっていたと伝わっているが、句碑や記念碑の建立には熱心で、その代表的な句碑に、金沢の繁華街香林坊に建っている「明暗碑」がある。この碑には「明暗を香林坊の柳かな」の句が刻まれており、風情ある川のほとりを明暗を背負った人々が行き交う様を表現しているが、この句碑の建立の経緯について、砂丘は次のように記している。
「香林坊橋の詰にあった人家を取り払って風致地区にした。香林坊商店街の名で吉田嘉一が柳六本と敷石凡そ六万円を市へ寄付した。後日誰が作ったか不明になるから碑を一本建てることにした。それがこれである。除幕式、そんな面倒なこといらない。それ二人で拍手三度最敬礼これでよろしい。ところが香林坊片町近代化と共に拡張、又拡張、その都度句碑は横辷り三度移された。」(「犀星往生」俳人小松砂丘が描く犀星の一生より)
また、この「明暗碑」は、小説家の五木寛之が作詞した楽曲「金沢望郷歌」にも登場する。この楽曲は、1番が室生犀星、2番が小松砂丘、3番が徳田秋声というふうに、石川県出身の文学者を登場させながら、金沢の街の風情を詞ったもので、永く金沢市民に歌い継がれている。
小松砂丘(1896-1975)こまつ・さきゅう
明治29年金沢市生まれ。本名は為一。別に古越野人と号した。木地職人のかたわら、俳諧に親しみ、俳画を筏井竹の門に師事し、独特の風味あふれる画風を開拓、小料理屋の飾り色紙、神社の祭行灯、寺院の天井画などを制作した。昭和3年第4回金城画壇展に会員として出品し、以後同展に出品を重ねた。昭和50年、80歳で死去した。
石川(39)-画人伝・INDEX
文献:金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成、「犀星往生」俳人小松砂丘が描く犀星の一生