畠山錦成(1897-1995)は、金沢市蛤坂町(現在の寺町)に生まれ、上京して東京美術学校日本画科に入学、はじめ新大和絵の開拓に力を入れていた松岡映丘の教室で、ついで洋画の表現を取り入れた新日本画の創造を目指していた結城素明の教室に学んだ。
在学中に文展に入選し、その後も帝展で連続して特選を得るなど中央画壇で活躍した。戦時中は郷里金沢に疎開し、戦後の文化復興の一環である金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)の設立に協力、昭和21年に同校が開校すると教授として後進の指導にあたった。
同校設立時の日本画の教授としては、常勤教員は畠山錦成と山本乙枝の2名で、半年後に中央から野田九浦が、地元から原田太乙、下村正一が就任した。
山本乙枝(1900-1982)は、佐賀県出身で、東京美術学校を出て石川県立工業学校図案絵画科の教師をつとめたのち、金沢美術工芸専門学校の教師に転身した。原田太乙(1906-1983)、下村正一(1914-2014)はともに金沢生まれで、京都市立絵画専門学校で日本画を学んだ先輩・後輩関係の新進作家だった。
畠山錦成(1897-1995)はたけやま・きんせい
明治30年金沢市蛤坂町(現在の寺町)生まれ。父は書家の畠山擲山。大正5年石川県立金沢第二中学校を卒業し、同年東京美術学校日本画科に入学。はじめ松岡映丘に、のちに結城素明に師事した。在学中の大正7年第12回文展に初入選。その後、第9回・第10回帝展で特選となり、画壇での地位を固めた。戦時中は金沢に疎開し、戦後、昭和21年の金沢美術工芸専門学校(現在の金沢美術工芸大学)の開校に協力、教授として後進の育成に尽力した。昭和30年職を辞して上京、制作活動に専念した。昭和35年第3回新日展で審査員、昭和36年日展会員となった。平成7年、97歳で死去した。
山本乙枝(1900-1982)やまもと・おとえ
明治33年佐賀県生まれ。8人兄弟の七男。佐賀中学校卒業後、東京美術学校日本画科に進み、大正15年卒業した。昭和3年から21年まで石川県立工業学校図案絵画科の教師となり、昭和21年の9月から新設の金沢美術工芸専門学校の教授として日本画を指導し、昭和30年同校が四年制大学として発足した時に退職した。昭和39年創造美術会に入り44年会員となり、その後は同会に出品した。昭和44年新設の金城保育学院及び金城高等学校の絵画の指導をはじめたが、昭和49年頃に体の都合でやめ、その後は画業に専念した。昭和57年、81歳で死去した。
原田太乙(1906-1983)はらだ・たいいつ
明治39年金沢市新竪町生まれ。本名は太一。別号に太致、太乙荘がある。石川県立金沢第一中学校に在学中に玉井敬泉に師事し、同校卒業後は京都市立絵画専門学校に進み、昭和4年卒業した。昭和17年大輪画院展で松影賞を受賞し会員となった。昭和21年第1回日展に初入選、以後昭和42年まで日展に出品した。また、金島桂華主宰の衣笠会展にも出品し、昭和50年同展で京都府知事賞を受賞した。昭和22年から金沢美術工芸専門学校で講師をつとめ、のちに短期大学・大学でも後進の指導にあたった。昭和58年、77歳で死去した。
下村正一(1914-2014)しもむら・まさいち
大正3年金沢市生まれ。家業の友禅修業のため京都に出て、昭和2年京都市立美術工芸学校絵画科に入学、さらに京都市立絵画専門学校本科に進み、堂本印象と出会い本格的に画家として立つ決意をし、昭和12年同校卒業後は東丘社に入り堂本印象に師事した。昭和11年文展に初入選、戦後は日展で活躍した。昭和22年金沢美術工芸専門学校講師となり、昭和49年同校教授となり、昭和55年に退官するまで後進の指導にあたった。平成26年、100歳で死去した。
石川(38)-画人伝・INDEX
文献:金沢市史資料編16(美術工芸)、石川の美術-明治・大正・昭和の歩み、 金沢市立中村記念美術館所蔵品図録、 石川県立美術館名品図録、新加能画人集成、燦めきの日本画-石崎光瑤と京都の画家たち