中浜松香(1857-1921)は、祖父が中浜鶴汀で、父が中浜龍淵という画家の家系に生まれ、幼いころから画を好み、家代々の画風を学ぶとともに、諸流派の画法を研究し、主に南画の研鑽につとめた。
水墨画、花鳥画を得意とし、各種の博覧会・品評会でたびたび褒状を受け、北陸絵画協会の審査員をつとめるなど、明治中期から大正半ばにかけて石川の日本画界の重鎮として活躍した。
中浜松香(1857-1921)なかはま・しょうこう
安政4年金沢生まれ。金沢の古寺町(現在の片町2丁目)に住んでいた。祖父は中浜鶴汀、父は中浜龍淵。中浜龍山は叔父にあたる。名は元重、通称は剱次郎、字は子龍。別号に痴頑子、大観堂、亀汀がある。幼くして画を好み、家代々の画風を学び、諸家の画業を研究したりして南画の研鑽につとめた。明治27年金城勝覧図誌を編纂。博覧会や品評会でたびたび褒状を受け、北陸絵画協会の審査員をつとめた。大正10年、65歳で死去した。
中浜龍淵(1827-1897)なかはま・りゅうえん
文政10年金沢生まれ。中浜鶴汀の長男。中浜家は代々医家だったが、父の鶴汀は画家でもあったため、はじめ父のもとで画を学び、のちに京都に出て山本梅逸に師事した。さらに長崎に遊学し、景勝地などを旅した。帰郷してからは、家にこもり、ひたすら唐宗の文明の古法を研究して門下生に教授したという。明治30年、71歳で死去した。
中浜龍山(1830-1865)なかはま・りゅうざん
文政13年金沢生まれ。中浜鶴汀の二男。名は栄、字は誠貞。別号に北涯がある。生家が代々の医家のため、はじめは医学を志し、藩医の吉益北洲に師事したが、のちに医学から離れて絵筆を持った。南画を描いたが早世したため遺墨はきわめて少ない。慶応元年、36歳で死去した。
石川(18)-画人伝・INDEX
文献:石川の美術-明治・大正・昭和の歩み、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成