矢田四如軒(1718-1794)は、加賀藩の年寄衆前田土佐守家の家老・矢田唯幻の二男として生まれ、兄が病死したため家督を継ぎ、前田土佐家の家老をつとめた。画についての師は不明だが、残された作品から狩野派を学び、さらに中国や日本の古画を模写して画技を高めたと思われる。岸派の祖・岸駒に画を教えたとも伝わっている。筆勢を強調した覇気に富む画風が特徴で、肖像画や頂相画のほか、禅に由来した道釈人物画、故事人物図など人物画を多く描いている。
また、同時代と思われる深山台州(不明-不明)は、加賀藩の計吏だったが、飲酒や賭博により放蕩を重ねたため職を外され能登へ退けられたが、その後許しを得て帰り、剃髪して「寒鴉坊」と号して大雅風の南画を好んで描いたという。
矢田四如軒(1718-1794)やた・しじょけん
享保3年金沢生まれ。名は廣貫、通称は六郎兵衛。別号に四如翁がある。加賀藩の年寄衆前田土佐守家の家老・矢田唯幻の二男。矢田家は最も古くから前田土佐守家に仕える家臣の家柄で、利政の側近として出仕したのがはじまりである。以後代々前田土佐守家の家老職をつとめ、四如軒も土佐守家家臣として六郎兵衛を名乗り、家老職をつとめた。江戸時代中期に武人画家として活躍したが、画を学んだ経緯や師系は不明である。寛政4年隠居し同年、77歳で死去した。
深山台州(不明-不明)みやま・たいしゅう
加賀藩士。深山安良の四子で、父安良は越中石動の人。通称は清八、諱は忘言、字は得意。寒鴉坊と号した。別号に盧峰、雪樵、費素、育王山人などがある。画を『費漢源画譜』によって学んだといい、水墨山水画を好んで描いた。
石川(10)-画人伝・INDEX
文献:金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成