本阿弥光悦とともに琳派の祖とされる俵屋宗達(不明-不明)は、17世紀の京都で町絵師として活躍し、やまと絵の様式を基盤に、装飾性と意匠性に富んだスタイルを確立させた。それが18世紀の尾形光琳に継承され、19世紀に入ると酒井抱一がさらに洗練を加えて江戸琳派の様式を確立した。
宗達の後継者とされる俵屋宗雪(不明-不明)は、宗達の子、あるいは弟、もしくは弟子と伝わっているが定かではない。宗達の工房で宗達とともに制作にあたり、宗達の死後に工房を引き継ぎ、やがて法橋に叙されている。
宗雪の技量は宮廷や幕府からも高く評価されていたようで、特に加賀藩三代藩主・前田利常は、宗雪に新たな可能性を見出していたとみられ、寛永19年には、利常の四女・富姫が八条宮家に輿入れする際、宮家の新築の御殿に狩野探幽とともに襖絵を描かせている。
その後、宗雪は京都から金沢に下り、加賀藩前田家の御用絵師となり、宗達の表現様式に漢画的な狩野派様式を融合させるなど、俵屋の画風を大きく変え、その一方で、宗達以来の草花図の制作を引き続き俵屋の中心的仕事とし、重文「秋草図屏風」(掲載作品)など草花図の名品を残している。
宗雪のあとに工房を引き継いだ喜多川相説(不明-不明)は、博物学的な草花図により独自の表現世界を築き、尾形光琳の画業にも影響を与えたとされる。確かな経歴は不明だが、宗雪が金沢に移ったと考えられることや、金沢地方に相説の作品が多く残っていることから、金沢で工房を開いていたと考えられている。
俵屋宗達(不明-不明)たわらや・そうたつ
京都で活躍した町絵師で「俵屋」はその屋号。別号は対青軒。「伊年」印を用いた。伝記は不詳だが、絵師として活躍する一方で、烏丸光広、千少庵ら当時の公卿や文化人との広い交際があった。扇面や色紙、短冊、巻子など、様々な形式の料紙装飾を手がける工房を主宰し、金銀泥を用いた雅で大胆な構図の金地屏風や華麗な料紙装飾に新しい画境を開いた。後継者の宗雪がすでに法橋の地位にあった寛永19年に近い頃に死去したとされている。
俵屋宗雪(不明-不明)たわらや・そうせつ
俵屋宗達の後継者で、工房印「伊年」を継承した。俵屋宗達の子、あるいは弟、または弟子と伝わる。寛永19年以前に法橋に叙された。加賀藩前田家の御用絵師となり、慶応3年前田利治の江戸屋敷の襖絵を描いた。代表作に重文「秋草図屏風」などがある。
喜多川相説(不明-不明)きたがわ・そうせつ
俵屋宗達、俵屋宗雪と同じ「伊年」印を使い、宗達工房の後継者と伝えられ、宗雪の没後、工房の指導にあたったと思われる。草花図を得意とし、薄墨と淡彩を用いて繊細に描かれた押絵帖の屏風が多く残っている。
石川(03)-画人伝・INDEX
文献:俵屋宗達と琳派、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成