茨城県笠間市に生まれた木村武山(1876-1942)は、幼いころから画才に恵まれ、明治24年、岡倉天心(1863-1913)が校長をつとめていた東京美術学校に入学した。この時、3年先輩に横山大観(1868-1958)と下村観山(1873-1930)が、1年先輩に菱田春草(1874-1911)がいた。大観は同校卒業後は京都市美術工芸学校教員などを経て3年後に母校の助教授になったが、天心がもっとも才能をかっていたとされる観山は、卒業と同時に助教授に抜擢されており、武山が卒業する時には、観山は武山の先生という立場にいた。武山は観山に心酔し、大きな影響を受けた。
明治31年、内紛で校長の座を追われた天心は、大観、観山、春草らとともに日本美術院を創立するが、この年は武山が研究科を修了した年で、武山は日本美術院に副員(準会員)として参加した。その後は、日本美術院の研究会や互評会などで研究を重ねるなど、天心のもとで研鑽に励み、絵画共進会などで受賞を重ねた。天心が日本美術院日本画部を茨城県五浦に移転した時も、大観、観山、春草らとともに五浦に移り住んだ。そして他の3人がそれぞれの事情で五浦を離れても最後まで五浦に残り、大正元年東京下谷に転居し、大正3年の日本美術院の再興に参加した。
武山が東京美術学校在学中、校長だった天心は、時代考証を行なったうえで、歴史や物語の一場面を画家の想像を加味して描くことは、日本画の近代化にとって有効であるとの考えから歴史画を推奨しており、武山も卒業制作で歴史画を描き、その後も継続して歴史画を発表、第1回文展では「阿房劫火」(上記掲載作品)で三等賞を獲得した。
大正期に入り、花鳥画にも本格的に取り組み、琳派が多用した「たらし込み」の技法を用いるなど、写実と装飾性の融合を進めながら独自の世界を模索した。また、近代日本画家があまり手掛けていない仏画も、古い仏画の名品を模写するなどして研究を深め、神社仏閣や個人宅の障壁画を数多く制作している。特に昭和9年に完成した高野山金剛峯寺金堂の壁画を彩った仏画の数々は、当時大きく取り上げられ、仏画家武山の金字塔ともなっている。
木村武山(1876-1942)きむら・ぶざん
明治9年茨城県笠間市生まれ。本名は信太郎。明治11年頃南画家・桜井華陵に師事、のちに武山と号した。明治23年上京し、東京府開成中学校に入学。明治24年川端玉章の天真社に学んだ。明治29年東京美術学校を卒業し、研究科に進んだ。同年日本絵画協会第1回絵画共進会で二等褒状。明治31年日本美術院創設に際して福員となった。明治39年に日本美術院の茨城県五浦移転にともない、家族とともに移住。明治40年第1回文展で三等賞。大正元年東京都台東区に転居。大正3年日本美術院の再興に経営者同人として参加。昭和9年高野山金堂の壁画を制作。昭和10年亡き母のために笠間邸内に大日堂を建立。昭和12年脳溢血で倒れ以後郷里の笠間で静養しながら左手で制作を続けた。昭和17年、67歳で死去した。
茨城(23)-画人伝・INDEX
文献:没後70年木村武山の芸術、茨城の画人、茨城の古書画人名事典、茨城県近代美術館所蔵作品図録 1997、開館20周年記念 茨城県近代美術館所蔵作品選