松本楓湖(1840-1923)は、常陸国河内郡寺内村(稲敷市寺内)に漢方医である松本宗庵の三男として生まれた。嘉永6年江戸に出て、狩野派の沖一峨の内弟子となり頭角を現わすが、安政2年に師一峨が没すると、翌3年には佐竹永海の門人となった。
幕末は剣術を学び、尊皇派の志士と交わり奔走したが、明治に入ると画業に専念し、近代的な歴史画を創始した菊池容斎に師事し、その画風を継承した。その後は、日本美術院創設に参加し、初期文展の審査員をつとめるなど、明治画壇の重鎮として活躍した。一方で浅草に安雅堂画塾を開き、今村紫紅や速水御舟ら大正・昭和期の日本画壇の中心となる画家を育て、すぐれた美術教育者としても名を高めた。
松本楓湖(1840-1923)まつもと・ふうこ
天保11年常陸国河内郡寺内村生まれ。名は敬忠、通称は藤吉郎。嘉永6年江戸に出て狩野派の沖一峨の内弟子となり洋峨と号した。師の没後は佐竹永海に師事し、永峨と改めた。幕末、剣術を学び尊皇派の志士と交わり奔走したが、明治に入り画業に専念し、明治元年頃菊池容斎に師事し、歴史人物画を学び、楓湖と号した。その後、浅草に安雅堂画塾を開いた。明治14年宮内省から刊行された『幼学綱要』全7巻の挿絵で名が広まり、『婦女鑑』をはじめ多くの教科書、新聞、雑誌に挿絵を寄せ、明治25年からは自ら編集主任になった『日本歴史画報』を刊行した。明治28年第4回内国勧業博覧会で妙技三等賞。明治29年門下生による巽画会顧問。明治30年荒木十畝らによる日本画会結成に参加。明治31年日本美術院創立に正員として参加、第1回展で審査員をつとめた。明治40年東京勧業博覧会で一等金賞を受賞、文展で審査員をつとめた。大正8年、84歳で死去した。
茨城(17)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、茨城県立歴史館報(12)、北関東の近代美術