有島武郎の小説「生れ出づる悩み」のモデルとして知られる木田金次郎は、生涯生まれ故郷の岩内に留まり、自らの画業を極めている。小説では少年(木田)が、スケッチを携えて私(有島)を訪ねるところから始まり、数年の音信不通の後に再会、たくましい漁夫に成長した少年は、漁夫を続けるべきか、画業に専念すべきかを悩み苦しんでおり、小説はその姿を描出して終わっている。
モデルの木田金次郎(1893-1962)は北海道岩内町に生まれ、岩内尋常高等小学校に入学。この頃、父の漁場で働く漁夫が描いた日本画に心うたれ、絵画への関心を持ち始めたとされる。同校高等科を卒業後に上京、東京開成中学に入学、翌年京北中学校に転校するが、家庭の事情により同年中退して北海道に帰った。その後しばらく札幌に下宿して絵を描いて毎日を過ごしていた。
明治45年、故郷・岩内に戻っていた木田は、たまたま札幌に出ていた時、黒百合会の第3回展に出品していた有島武郎の水彩画を見て感銘を受ける。そして、偶然にもリンゴ園のなかにあった有島の家を見つけ、数日後、描きためたスケッチを持って訪れた。そのスケッチに「不思議な力が籠もっている」ことを感じた有島は、その後たびたび木田を札幌に来るように誘うが、木田が有島のもとに出向くことはなかった。
それから7年、木田はこの頃からまた絵を描きはじめている。そして、また有島に絵を見てもらおうと、スケッチ帖が入った小包と手紙を送った。木田の名前もほとんど忘れかけていた有島は、そのスケッチを見て「明らかに本当の芸術家のみが見得る、而して描き得る深刻な自然の肖像画だ」とその才能に驚嘆し、再会を熱望、その年の11月、有島が経営していた狩太農場で7年ぶりの再会を果たした。
7年ぶりに会った24歳の木田は、漁夫として完全な若者に成長しており、健康そのものの赤銅色の顔に、肩は筋肉で盛り上がり、スケッチ帖で想像される鋭敏な神経の持ち主らしいところは、微塵も感じとることはできなかった。たくましい漁夫に成長した木田は、漁夫として一生暮らすか、芸術に専念するか苦しんでおり、その姿を描いて「生れ出づる悩み」は終わっている。
小説が出版されてから5年後の大正12年、有島は軽井沢で当時「婦人公論」記者で既婚者だった波多野秋子と心中をはかり、死んでしまう。その訃報を知った木田は葬儀にかけつけるが、この頃から漁業を捨て、画業に専念する決意を固めていたと思われる。その後は、地元の美術グループの結成に参加するが1度も出品せず、全道美術協会(全道展)の創立にも名を連ねたが、こちらも1度も出品せずに脱会した。60歳の時に初の個展を開催後は各地で展覧会を行なった。69歳の時に、木田の生涯を追ったドキュメンタリーがNHKテレビで放映され、展覧会を東京、大阪、福岡、札幌で開催したが、同年脳出血のため死去した。
木田金次郎(1893-1962)きだ・きんじろう
明治26年岩内郡御鉾内町生まれ。明治33年岩内尋常高等小学校に入学。明治41年同校高等科卒業。同年上京し東京開成中学に入学するが、翌年中退して京北中学3年に編入。この頃から絵を描き始める。翌年同校を中退して帰郷。同年札幌駅前通りにあった女子尋常高等小学校で開催されていた第3回黒百合会に出品していた有島武郎の水彩画を見て感銘を受け、札幌にあった有島の家を偶然見つけ、数日後に描きためたスケッチをもって訪れる。その後たびたび有島から札幌に来るように誘われるが出向かなかった。大正6年、この頃から再び絵を描きはじめ、11月、有島が経営していた狩太農場を訪問し、7年ぶりに再会する。大正7年3月、大阪毎日新聞と東京日日新聞に有島の「生れ出づる悩み」の連載が始まり、同年9月に叢文閣から有島武郎著作集第6輯として『生れ出づる悩み』が刊行された。大正12年に有島が軽井沢で波多野秋子と心中。この頃から漁業を捨て、画業に専念する決意を固めたとされる。昭和5年町議会議員に当選して任期途中の昭和7年までつとめる。昭和20年小川原脩、間宮勇らの「後志美術協会」の結成に加わるが、1度も出品せず、同年全道美術協会(全道展)の創立にも名を連ねたが、こちらも1度も出品せずに昭和24年脱会した。昭和28年、60歳の時に「木田金次郎個人展第1回」を札幌・丸井今井百貨店で開催。その後も東京、札幌、仙台などで個展を開催。昭和29年北海道文化賞受賞。昭和32年北海道新聞文化賞受賞。昭和37年NHKテレビで木田金次郎の生涯を追ったドキュメンタリー番組が放映され、新作展を東京で開催、大阪、福岡、札幌を巡回したが、同年脳出血のため、69歳で死去した。
北海道(33)-画人伝・INDEX
文献:生れ出づる悩み、風土を彩る6人の洋画家たち、北海道美術の青春期、北海道の美術100年、美術北海道100年展、北海道美術あらかると、北海道美術史