菊川英山(1787-1867)は、江戸市ヶ谷の造り花屋「近江屋」の子として生まれ、狩野派の絵師の門人だった父に絵の手ほどきを受け、のちに鈴木南嶺に師事した。また、幼い時から親しかった葛飾北斎門下の魚屋北渓を通じて北斎流の画風も習得した。
16歳頃には役者絵を描き、18、9歳にして早くも絵師として評判を得ていたといわれる。文化3年、絶大な人気を誇った喜多川歌麿が没した後は、しばらく歌麿風の作品を手がけていたが、その後、新しい女性像を模索し、六頭身で小柄な女性を可憐に描く英山独自の画風を確立していき、21歳頃には、「役者は豊国、美人画は英山」と役者絵の第一人者・歌川豊国(1769-1825)と並び称されるようになった。
しかし、文政期に入ると人々の好みは歌川国貞(1786-1865)や英山の門人である渓斎英泉(1791-1848)が描く新しいスタイルの美人画へと移行していき、英山の美人画は次第に時代に取り残されていった。絵の売れ行きが振るわなくなった英山は、天保期以降はまったく錦絵を描かなくなった。
76歳だった文久2年、娘とよの嫁ぎ先である上州藤岡の呉服商・児玉屋に移住し、同地に多くの肉筆画を残している。なかでも文久3年に制作された、貴人の風雅な観桜のさまをとらえた六曲一隻「観桜舟遊屏風」は大作として知られる。
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参考:UAG美人画研究室(菊川英山)
菊川英山(1787-1867)きくかわ・えいざん
天明7年江戸市ヶ谷生まれ。本名は俊信、通称は万五郎。別号に重九斎がある。家業は代々造り花屋を営んでおり近江屋と号した。はじめ狩野派・狩野東舎の門人だった父英二から絵の手ほどきを受け、のちに鈴木南嶺に師事した。また、友人だった魚屋北渓を通して葛飾北斎の画風も習得した。また喜多川歌麿の筆意も学んだ。歌川派と北斎派との中間にあって、新たに菊川派を創設し、その祖となって多くの美人画を発表した。一方、俳優似顔絵を得意とし、歌川豊国との合作の錦絵も残されている。晩年はやや不遇で、娘とよの嫁ぎ先である藤岡に住んだ。この地で「観桜舟遊屏風」「浅間社祭礼絵巻」などの作品を描いた。慶応3年、81歳で死去した。
群馬(03)-画人伝・INDEX
文献:『ぐんま』ゆかりの先人、群馬県人名大事典