◎江戸中期の画家(2)
渡辺洞昌(初代~五代)
初代:渡辺益清。寛文4年生まれ。宝永5年に法橋の位を得て、正徳2年に秋田に来た。四代藩主佐竹義格の時代。元文2年死去。
二代:渡辺方慶。元文3年生まれ。名は孝都。別号に洞泉、元昌がある。江戸の洞春に師事したといわれる。寛政2年死去。
三代:渡辺方富。享保16年生まれ。名は元機、または元喜。江戸の洞春に師事したといわれる。九代藩主義和の時代。寛政9年死去。
四代:渡辺愛信。幼名は宗順、のちに愛信と改めた。小滝宗運の二男。享和のころ四代目洞昌を継いだ。法橋の位を持ち、義和時代の御用絵師をつとめた。江戸の狩野洞白の門。鐘馗を得意とした。『集古十種』の下書きや、当時の風俗レポート『羽州風俗問状答』の挿絵を狩野秀水と描いたらしい。
五代:渡辺愛恒。幕末の人。安政2年死去。
津村洞仙
文化元年生まれ。名は重信。渡辺洞昌に師事。安政3年8月、53歳で死去した。
菅原寅吉
秋田蘭画家。菅原北明の父。文化の頃、秋田の千家生花一七世を宗久と争って敗れ、新たに松亭流を設けた。生け花では応機斎其得と号した。蘭画の代表作に《蝦蟇仙人》(個人蔵)がある。平野政吉コレクションの伝寅吉の《牡丹》には、蘭香釣人の署名がある。
二葉膠山
名は氏向。通称は勘左衛門。文晁の門人で秋田江戸邸に住んだ。孫に小室怡々斎がいる。文化年間に54歳で死去した。
片山無知
享保20年生まれ。伊賀の人。別号に華岳。諸国に遊び、文化3年秋田に来て吉成氏に仕え、その年の9月2日、62歳で死去した。
是山
享保17年2月15日由利郡北内越村字赤田に生まれる。田口長三郎の長男。幼名は大助。2歳の時、南無阿弥陀仏を口まねし、5歳にして草刈りがまで仏像を彫って人々を驚かせたという。22歳の時に竜門寺を訪ね剃髪し是山という名を受けた。赤田五峰山の大仏を建てたのは天明6年、55歳の時で、堂塔大伽藍は寛政5年に完成した。これが今の正法山長谷寺だが、是山が建立した大仏は明治年間に焼失、今のものはその後再建したものである。文化8年7月15日死去。
荻津独元斎
延享3年生まれ。秋田蘭画家。八代藩主佐竹義敦時代の武士。名は勝孝、通称は孫太郎、八十八。兄の石橋造酒も天竺山人の号を持つ画家、子の勝益は花押研究家、孫の白銀斎は棒術と狂歌を得意とした。安永2年に鉱山視察にきた平賀源内から、小田野直武、田代雲夢らとともに洋風画を習ったとされる。代表作に《秋田風俗絵巻》《菅公像》《荻津夫妻像》《土崎湊絵巻》などがある。文化6年8月19日死去。
徹心
由利郡岩城町の竜門寺二十八世「大無」の諱。京都府の山城神応寺の東谷直伝の高弟らしい。若い頃から絵筆で持つことが好きで、よく虎を描いたので「虎和尚」と呼ばれていた。晩年、閑居してからは作画に専念し、文化10年70余歳の時に描いたダルマの図が本荘市の東林寺に保存されている。文化12年5月14日死去。
秋田(3)-ネット検索で出てこない画家
文献:秋田書画人伝