洋画の黎明期にあって、愛媛出身の洋画の先達としては、下村為山と中川八郎があげられる。当時は、洋画の技法を修得するには上京して画塾などで指導を受けるしかなく、下村為山(1865-1949)も、明治15年に上京し、高知の国沢新九郎が創設して本多錦吉郎が引き継いだ洋画塾・彰技堂に入門した。のちに小山正太郎が開設した不同舎で明治リアリズム絵画を学び、中村不折とともに小山門下の双璧と称された。26歳の時に内国勧業博覧会で褒状を受けるなど将来を嘱望されたが、同郷の正岡子規との出会いにより、俳句に熱中し、やがて洋画を離れ、俳画を描くようになった。為山が洋画家として活動した時期は短いが、愛媛の洋画の先達として特筆される存在である。
中川八郎(1877-1922)は明治から大正にかけて文展、帝展を通して中央で活躍した。大阪で日本画を学んでいたが、油彩画の迫真性に感銘を受けて洋画に転向、松原三五郎の天彩画塾を経て、明治29年に上京して不同舎に入門した。同32年には同門の吉田博と渡米し、展覧会で成功をおさめ、その後はヨーロッパを巡遊して帰国した。太平洋画会の結成に参加するなどしたが、同40年に文展が開設されると同展に出品、リアリズムを追究した風景画で活躍していたが、3度目の渡欧からの帰国直後、48歳で病没した。
牧田嘉一郎(1894-1956)や三好計加(1896-1946)も中央画壇の空気を愛媛に持ち帰った画家である。また、愛媛出身ではないが愛媛の若者たちに大きな影響を与えた画家に、宮崎出身の塩月桃甫と、香川出身の平井為成がいる。二人は東京美術学校で洋画の新しい波を体現し、のちに教育者として松山に赴任した。教え子に、塩月の薫陶を受けて東京美術学校に進んだ藤谷庸夫(1896-1962)や松原一(1896-1965)、平井を通じて岸田劉生への憧れを増大させた重松鶴之助(1903-1938)らがいる。
さらに、渡仏後に国画会会員として活動した馬越舛太郎(1899-1987)、二科展や院展洋画部に出品した水木伸一(1892-1988)、村山知義らとマヴォを結成するなど、プロレタリア美術史に大きな足跡を残した柳瀬正夢(1900-1945)、東京美術学校在学中に二科展に初入選し二科を中心に活躍した野間仁根(1901-1979)、大洲出身で東京美術学校卒業後に渡仏し帰国後に官展を中心に活躍した中野和高(1896-1965)らがいる。
下村為山(1865-1949)
慶応元年温泉郡出淵町生まれ。本名は純孝。呼び名は「為さん」。明治15年、18歳の時に上京し、本多錦吉郎の彰技堂に入り洋画を学び、同20年に不同舎に転じた。同22年第1回明治美術会展に出品、翌年第3回内国勧業博覧会で褒状を受けた。同24年同郷の俳人・正岡子規と出会い日本画にも興味を示し、俳句を学ぶようになり俳号は牛伴と名乗った。同30年松山で俳誌『ほととぎす』が柳原極堂によって刊行されるにあたって題字を書き、挿絵を描き、翌年の子規による東京版『ほととぎす』発刊に際しても、中村不折、浅井忠らとともに同誌の挿絵を描いて、以後俳句的画趣と西欧的写実性をあわせもつ「俳味画」といもいうべき作品を描き、大正期には俳画の大家として『ほととぎす』を背景に活躍した。昭和24年、疎開先の富山県西砺波郡において、84歳で死去した。
中川八郎(1877-1922)
明治10年喜多郡天神村生まれ。中川猪三郎の長男。9歳の時に叔父の中川金三郎を頼って大阪に出た。小学校卒業後に家業の手伝いのために日本画を習うが、のちに洋画に転向し、松原三五郎の天彩画塾に入った。明治29年松原の勧めで上京して小山正太郎の主宰する不同舎に入門した。同32年同門の吉田博とともに渡米、各地で展覧会を成功させ、その資金でヨーロッパを巡り、遅れて渡米してきた同門の満谷国四郎、鹿子木孟郎ら4人の仲間とともに展覧会を成功させて帰国した。翌年、彼らとともに太平洋画会を結成した。同40年年東京勧業博覧会で2等賞、同年第1回文展、続いて2、3回展でも3等賞、第4回展では2等賞を受賞した。翌年から審査員となり、全国各地に取材した風景画を出品した。大正10年に3度目の渡欧をするが、帰国後に病を得て、翌年の大正11年、48歳で死去した。
愛媛(19)-画人伝・INDEX