- UAG美術家研究所HOME >
- yuagariart
yuagariart
江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2024/12/11
北海道美術の黎明期、小樽は札幌とともに美術運動に大きな役割りを果たした。小樽の初期美術グループとしては、長谷川昇、小寺健吉、工藤三郎が東京美術学校在学中に結成し、小樽倶楽部で展覧会を開催した「羊蹄画会 ...
2021/7/6
「生れ出づる悩み」「或る女」などで知られる小説家・有島武郎(1878-1923)も、黎明期における北海道美術の発展に貢献したひとりである。東京に生まれた有島は、学習院中等科卒業後に農学者を志して札幌農 ...
2021/7/6
洋画家の林竹治郎(1871-1941)に続いて、北海道に美術教師として赴任してきたのが、日本画家の菅原翠洲(1874-1931)だった。東京に生まれた菅原は、東京美術学校日本画科に入学、在学中は狩野派 ...
2021/7/6
明治30年代になって、東京美術学校出身の2人の美術教師が、いわば美術の開拓使の役割を担い、相次いで札幌に移住してきたのが、北海道美術の本格的なはじまりといえる。アカデミックな写実画を描いた洋画家・林竹 ...
2021/7/6
北海道洋画の黎明期に活躍した洋画家として、高橋勝蔵(1860-1917)がいる。高橋は宮城県亘理町に生まれ、10歳の時に家族とともに北海道に移住した。19歳で上京して日本画を学びながら横浜で輸出向けの ...
2021/7/6
北海道出身の横山松三郎(1838-1884)は、幕末期に写真術や西洋画法を学び、初めて江戸城を撮影するなど、記録写真師として活動するとともに、究極の写実表現を追究して、写真と油絵を融合させた「写真油絵 ...
2021/7/6
悲運の武将といわれた源義経には、さまざまな伝説が残っており、「義経蝦夷渡り伝説」もその一つである。『吾妻鏡』や『義経記』が伝える史実としては、文治5年の衣川の合戦で、義経は藤原泰衝に衣川館を攻められて ...
2021/7/6
平沢屏山の弟子といわれる絵師に木村巴江(不明-不明)がいる。函館水元の水茶屋の主人だったとも、理髪業を営んでいたとも伝わっている。経歴などは不明だが、屏山に学び、筆勢は及ばないが師風をよく伝えている。 ...
2021/7/6
明治9年に没した平沢屏山は、最後のアイヌ絵師と称され、その屏山の死をもってアイヌ絵は終焉したとされている。アイヌ絵のおおまかな定義としては「鎖国下にふくらむ好奇心が求めた異国趣味的絵画」とされているた ...
2021/7/6
平福穂庵(1844-1890)は、秋田の角館町に生まれ、7歳で同じ町内に住んでいた四条派の武村文海に画を学び、17歳で本格的に絵を学ぶべく京都に出たが、師には就かず、写生や古画の模写によって独修した。 ...
2021/7/6
最後の文人画家と称される富岡鉄斎(1837-1924)は、京都に生まれ、若いころから学問を志し、私塾を開き、各地の神社の神官を歴任していたが、兄が没したために京都に戻り、以後89歳で没するまで、文人と ...
2021/7/6
伊勢国に生まれた松浦武四郎(1818-1888)は、幼いころから旅にあこがれ、16歳の時にひとりで江戸まで歩いて旅をし、17歳からは全国各地を旅するようになった。21歳の時から3年ほど長崎の平戸で僧侶 ...
2021/7/6
寛政11年の蝦夷地大調査に参加し『蝦夷島奇観』を著した村上島之允は、その後も蝦夷地の風俗や器物をさらに詳述した続編を著していたが、完成をみることなく49歳で病没した。村上島之允の没後は、門人の間宮林蔵 ...
2021/7/6
寛政11年の幕命による蝦夷地大調査には、谷文晁の実弟・谷元旦(1778-1840)も産物調査の一員として参加していた。元旦がこの調査に参加したのは、15歳年長の兄・文晁が仕えていた御三卿のひとつ・田安 ...
2021/7/6
1799(寛政11)年、異国船が頻繁に接近する蝦夷地の情勢に危機感を募らせた江戸幕府は、180人に及ぶ大調査団を蝦夷地に派遣した。この調査団に、のちに代表作『蝦夷島奇観』を著す村上島之允(1760-1 ...
2021/7/6
アイヌ風俗の記録としては、絵師によるアイヌ絵だけではなく、菅江真澄のように旅行者が旅先の光景を描き留めたり、蝦夷地を訪れて「蝦夷草木図」を著した小林豊章のように、幕命によって蝦夷地調査に関わったものも ...