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江戸時代を中心に明治中頃くらいまでに活動していた各地の画家を調査し、都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。
2021/7/6
角館に生まれた平福穂庵は、幼いころから郷里の四条派の画家・武村文海に学び、16歳の時に京都に遊学、特定の師につかず社寺に伝わる古画の模写や風物写生により画技の研鑽につとめた。22歳で帰郷し、家業の染物 ...
2021/7/6
秋田藩内で盛んになった円山四条派の絵は、柴田南谷や川口月嶺によって広まったものと思われ、幕末から明治にかけて中央画壇でもその画名を知られるようになった角館の平福穂庵も、川口月嶺の影響を受けていると思わ ...
2021/7/6
大坂画壇での長山孔寅の活躍は、秋田で四条派が普及する導火線になったと思われるが、系統として円山四条派の絵画を秋田藩内に広めたのは、江戸で学んだ横手の柴田南谷らとされる。 柴田南谷(1802-1873) ...
2021/7/6
秋田出身の四条派の初期画人としては、京都に出て呉春に学び、のちに大坂画壇で活躍した長山孔寅(1765-1849)がいる。孔寅は、12歳で角館の酒屋・久田屋に奉公し、のちに秋田の那波呉服店につとめた。孔 ...
2021/7/6
三河国で生まれた菅江真澄(1754-1829)は、30歳の時に故郷を離れ、信濃、越後、蝦夷地、下北、津軽、秋田と歩き、その人生の大半を旅に暮らした。はじめは白井英二、秀超、秀雄などと称していたが、48 ...
2021/7/6
由利・本荘地方は、本荘狩野といわれる独自の絵画圏をつくり、狩野派が大きな勢力を持っていたが、谷文晁系の南画を学んだ増田九木は、長い旅の末に広く画名をあげ、帰郷後には藩御用絵師として活躍した。 増田九木 ...
2021/7/6
本荘市の永泉寺山門は、本荘藩最後の藩主・六郷政鑑の時代に、永泉寺六世義門達宣の発願によって3年の歳月をかけて慶応元年に完成したもので、昭和43年に秋田県有形文化財に指定されている。山門の楼上には、本荘 ...
2021/7/6
本荘藩御用絵師の初代である牧野永昌(1747-1823)は、秋田狩野の祖とされる狩野定信とは別系統に属する狩野派の絵師で、いわゆる本荘画工といわれる一連の画人の始祖である。はじめ藩の絵師に手ほどきを受 ...
2021/7/6
藩政時代の秋田藩御用絵師は、秋田狩野派の祖とされる狩野定信の画系が代々つとめていたが、その系列とは別に第9代秋田藩主・佐竹義和の時、狩野秀水(不明-不明)が江戸定居の御用絵師となり、秋田の年中行事を記 ...
2021/7/6
秋田に最もはやく南蘋派の画法を伝えたのは、横手の佐々木原善(不明-不明)とされる。原善は横手城代の戸村義敬・義通(後草園)親子をパトロンとし、安永年間に江戸に出て松林山人について学び、さらに長崎に行き ...
2021/7/6
秋田蘭画は、小田野直武、佐竹曙山を中心に盛り上がりをみせたが、安永8年、直武に西洋画法を伝授した平賀源内の死去にはじまり、翌年には直武が、その5年後には曙山も死去し、創始に関わった人物の相次ぐ死により ...
2021/7/6
秋田蘭画の画家としては、平賀源内に西洋画法を伝授された小田野直武と、直武から画法を学んだ秋田藩主・佐竹曙山を中心に、直武のよき理解者だった角館城代の佐竹義躬、直武とともに源内から直接学んだとされる田代 ...
2021/7/6
佐竹曙山の直臣・荻津勝孝も秋田蘭画を描いた人物のひとりとされ、平賀源内が秋田滞在中に、小田野直武、田代忠国とともに源内に西洋画法を伝授されたと伝わっている。狩野洞春の画風を学んだが、専門画家ではなく、 ...
2021/7/6
秋田の俳人・森田顕忠の子として生まれた田代忠国は、秋田藩士・田代網紀の養子となり、産物方として佐竹曙山、義和の二代の秋田藩主に仕えた。洋学に通じ、直臣としてよく仕えたので、曙山から「忠国」の名を賜った ...
2021/7/6
第6代角館城代の佐竹義躬(1749-1800)は、小田野直武が直接仕えた上役であり、よき理解者だった。そして、直武から直接西洋画法を学んだ秋田蘭画の画家のひとりでもある。義躬の父・義邦は芸文を好み、そ ...
2021/7/6
秋田蘭画が生まれるきっかけとなった平賀源内の秋田招聘は、時の秋田藩主・佐竹曙山によって行なわれた。曙山は、鉱山開発のために招いた源内が角館で小田野直武に洋画法を伝授したことを知ると、すぐに直武を江戸に ...