近代文学を代表する小説家の一人である太宰治(1909-1948)は、美術に関しても強い関心を持ち続け、多くの小説に画家や美術に関するモチーフが登場してくる。小説『津軽』では、主人公が兄の持っていた建部綾足の絵を見て、津軽にもこんな偉い画家がいたのかと驚嘆する場面が描かれ、随筆「青森」では、中学校時代に下宿先の近所にあった花屋に展示されていた無名時代の棟方志功の油彩画を購入したことが記されている。
また、代表作『人間失格』においても、美術が重要な役割を果たしている。自伝的要素を織り込んだとされる主人公・大庭葉蔵は、中学生時代に画家を志すようになるが、そのきっかけは、級友から見せられたゴッホの自画像である。その時から主人公は自画像の制作を試みるようになり、その後も小説には自画像が象徴的に登場してくる。
太宰自身、中学時代から同人誌などの表紙を自らデザインしたほか、ノートや教科書に自画像をはじめとする顔の落書きを繰り返し描いていた。のちに画家になる同級生の阿部合成と同人誌を創刊して文学活動を行なっていたときも、太宰の方が画家になるのではないかと思われていたという。
上京して作家活動を本格化させてからも、阿部合成や小館善四郎、桜井浜江ら多くの画家たちと交流をもっていた。掲載の「自画像」は、桜井浜江のアトリエで描かれたとされるもので、太宰はその場にあった画材をつかって素早く仕上げ、そのまま置いていってしまうことがよくあったという。
桜井浜江(1908-2007)は、山形市出身の洋画家で、昭和7年に新進作家の秋沢三郎と結婚し、高円寺や阿佐ヶ谷に住み、秋沢の友人だった太宰らと知り合った。その後、桜井は秋沢と離婚し、三鷹に住むようになるが、戦後まもなく三鷹で太宰と再会した。太宰は友人をつれてしばしば桜井のアトリエを訪れ油彩画を描いている。桜井は小説『餮応夫人』のモデルとされている。
太宰治(1909-1948)だざい・おさむ
明治42年青森県北津軽郡金木村生まれ。本名は津島修治。大正12年青森中学校に入学。大正14年交友会誌に最初の創作「最後の大閣」を発表。同年阿部合成らと同人雑誌「星座」を創刊するが1号で廃刊し、同人雑誌「蜃気楼」を創刊する。大正15年同人雑誌「青んぼ」創刊。昭和2年芥川龍之介の自殺に衝撃を受け、以降学業が停滞。昭和3年「細胞文芸」を創刊。昭和4年カルモチンを多量に服用し自殺未遂。昭和5年東京帝大仏文科に入学。共産党のシンパ活動に加わる。同年井伏鱒二に師事。同年銀座のカフェの女給と鎌倉で心中未遂し女給のみ死亡。昭和7年社会主義運動から離脱、この頃から小館善四郎と活発に交流する。昭和8年同人誌「海豹」に初めて「太宰治」の筆名で作品発表。昭和9年檀一雄らと「青い花」を創刊。昭和10年大学卒業が絶望となり、就職試験も失敗、鎌倉山で自殺未遂。昭和11年バビナール中毒に陥る。同年第一創作集『晩年』を刊行。昭和12年妻の小山初代と水上温泉で心中未遂し、のちに離別。この頃阿部合成と再会し親密な交遊が始まる。昭和20年甲府に疎開し翌年東京に戻る。昭和22年喀血。同年『斜陽』を刊行。昭和23年『人間失格』第1回分を発表。同年山崎富栄と心中し39歳で死去した。
青森(44)-画人伝・INDEX
文献:太宰治と美術、青森県史 文化財編 美術工芸