高橋竹年(1887-1967)は、幼いころから筆を持ち、弘前藩の儒者だった父・米州の薫陶を強く受け、父も学んだ三上仙年に入門、7歳で京都で開かれた大博覧会に出品し、その非凡さが賞賛された。弘前高等小学校から東奥義塾に進んだが、画道に専念するために退学して父とともに東京に行くことになり、上京のあいさつのため師の仙年を訪ねると、仙年から「将来は今尾景年や鈴木松年のような天下の名人になれ」と激励され、景年、松年、仙年の「年」をとり「竹年」の号を与えられ、以来この雅号を一貫して変えることはなかった。
その後、東京から一時帰郷したが、16歳で再び上京し、野村文挙に入門した。文挙はすでに竹年の実績を知っていて、弟子というよりも、客分として入門を許した。文挙の門に入った竹年は、いよいよ画技を深めていき、日本美術協会、日本画会を中心に出品し、受賞を重ねていった。また、橋本雅邦、横山大観らが中心となって開催していた上野の二十日会にも入り画法の研究につとめた。そのころ竹年は狸穴に住んでおり、そこから上野まで長い距離を歩き続け、毎日のように動物園でスケッチをしていたという。
大正初年になり、竹年は大阪に転居した。これは、明治44年に師の文挙が没したこともあるが、当時、新派と旧派に分かれて争っていた日本画界のなかにあって、どちらかといえば旧派に傾注していた竹年にしてみれば、むしろ画壇の中心は京阪地方であると考えていたと思われる。
25歳で大阪入りした竹年は、新聞で「青年画家来阪す」と報道されるほど、すでに人気画家となっていた。大阪では個展を開催し、出雲大社大衝立、住吉大社本殿扉絵、岩木山神社玉垣の中門天井画などを制作、法橋の位も受けている。大阪での活動は30余年にもおよんだが、昭和20年には戦禍を避けて弘前市長坂町に帰郷。戦後は青森日本画壇の長老として活躍し、昭和36年、70余年に及ぶ画業が評価され、第2回青森県文化賞を受賞した。
高橋竹年(1887-1967)たかはし・ちくねん
明治20年弘前市長坂町生まれ。本名は高橋濟。父・米州は弘前藩の儒者。三上仙年に師事し、7歳の時に京都博覧会に出品した。明治31年弘前時敏尋常小学校4年課程を修了、東奥義塾に進学したが、中退して明治36年に上京、野村文挙に師事した。日本絵画協会や日本美術協会に出品して褒状を受けた。明治45年大阪に転居し堺市に住んだ。大正10年大阪・十合百貨店で個展を開き以後も開催。大正12年法橋位を受けた。出雲大社大衝立、住吉大社本殿扉絵、岩木山神社玉垣の中門天井画などを制作。昭和20年疎開のため弘前市に転居し、弘前市最勝院、平和の鐘、格天井などを制作。昭和36年第2回青森県文化賞を受賞。昭和42年、80歳で死去した。
青森(23)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史、青森県近代日本画のあゆみ展