弘前藩のお抱え絵師をつとめた秦家の歴代絵師に関しては、現存する作品が少なく、画歴や作風も不明な点が多いが、初代以来幕末まで九代にわたって、国元で絵師をつとめた。藩庁日記などによると、寺社奉納の絵馬や扉絵、城中屏風などを手がけたという記録が残っているが、現在それらの絵は数例を数えるのみである。
初代の秦新右衛門養雪は、狩野常信の門人で、寛文8年に病死した。二代目を継いだ養雲常貞は、初代の養子で初代と同じく新右衛門と称して周武と号した。また、三代の如春も周武を名乗っている。秦家については、名前や号が代を隔てて踏襲されたので、混同されることが多い。
宝暦8年、春量武貞が四代目を継いだが、明和2年に江戸で病死。春量には後継ぎがいなかったため、藩士・岩淵千次郎の四男が養子として迎えられ、量雲武房として五代目を継いだが、幼少だったため禄は半減での召し抱えで、10年後の寛政9年に元の扶持に復活した。五代目は文政3年に隠居、文政8年に病死。以後、六代・如春養俊、七代・鶴森、八代・春量、九代・清策と続いた。
秦新右衛門養雪(不明-1668)はた・しんうえもん・ようせつ
秦家初代。狩野常信の門人。三代藩主・信義に召し抱えられたともいわれているが明らかではなく、九代清策によって書かれた秦家の由緒書には、四代信政に召し出されたとされている。寛文8年に病死した。
秦養雲常貞(不明-不明)はた・よううん・つねさだ
秦家二代。秦新右衛門養雪の養子。初代と同じく新右衛門と称して周武と号した。元禄3、4年に測量家と同行して黒石、平内の絵図を作成した。四代藩主・信政が、元禄5年に没した母久祥院のために隣松寺に寄進した位牌堂の須弥壇に描かれた「牡丹に唐獅子図」や、元禄2年建立の隣松寺地蔵堂の天井に描かれた「雲竜図」が残っている。この時期の弘前藩における重要な仕事を担当し、享保9年、三代・如春武貞が家督を継ぐまで50年以上にわたって絵師をつとめた。
秦如春武貞(不明-不明)はた・じょしゅん・たけさだ
秦家三代。二代と同じく周武と号した。享保10年藩の絵師を動員して上野寛永寺に伝わる住吉具慶筆の「両大師縁起絵巻」9巻を模写した際には、「慈眼大師縁起絵巻」巻二、「元三大師縁起絵巻」巻六を担当した。寺社奉納の絵馬のほか、城中で使用された調度を描いたことが記録に残っている。
青森(4)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史