画人伝・秋田 狩野派 風俗図・日常風景

秋田の近代日本画の礎を築いた小室怡々斎

小室怡々斎「年中行事」画面右から左へと五節供を中心とした陰暦12カ月の行事が描かれている。右上から、正月「万歳」と2月初午「絵馬奉納」、3月「雛祭」と4月「初鰹」、5月「端午の節供」と6月「夏越祓」

右上から、7月「七夕」と8月「月見」、9月「菊節供」と10月「戎講」、11月「酉の市」と12月「餅つき」

小室怡々斎(1837-1900)は、秋田藩御用絵師の津村洞養に学び、狩野派ではあるが容斎派の前賢故実などを研究し、人物背景、調度などは粉本によらず、研究して描いていたという。廃藩後は一時役人になったが、間もなく退いて絵で身を立てた。多くの門人を育て、その門からは寺崎広業、土屋秀禾、小場恒吉らが出ており、秋田の近代日本画の礎を築いた画家といえる。

天神の絵を得意とし、天神を描く時は、天王町北野天神のみたらいの水をわざわざ汲んできて絵の具を溶いたほど、仕事に厳しかったという。彫刻、俳句にもたけていた。

小室怡々斎(1837-1900)こむろ・いいさい
天保8年秋田生まれ。秋田藩士・二葉代祐の三男。祖父の二葉膠山は谷文晁に学んだ人物だった。名は秀俊、字は子傑、通称は源吉。別号に竹涯、耕雲館などがある。幼年で小室秀毅の養子となった。津村洞養に師事し、東洋絵画会(のちの日本美術協会)の会員となった。明治13年秋田勧業博覧会で賞牌を受け、その後明治15年第1回内国絵画共進会、明治17年第2回内国絵画共進会、明治23年第3回内国勧業博覧会などに出品した。明治33年、64歳で死去した。

秋田(23)-画人伝・INDEX

文献:秋田県立博物館収蔵資料目録、秋田市立千秋美術館所蔵作品選、秋田書画人伝




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