高岡で堀川敬周と同時代に活動した絵師に中川菱香(1812-1869)がいる。菱香は、尾張藩士の子として生まれ、8歳で両親を失い京都の叔父に引き取られた。京都で四条派を学び、15歳で叔父の家を辞して諸国遍歴の旅に出たが、その途中、高岡を訪れた際に画才を認められ、乞われて高岡木町に定住した。以来、金沢、富山、古国府、井波など各地に招かれて名声を得たという。
菱香の門人・佐伯春芳(1848-1901)は、高岡梶原町の重願寺住職で、13歳の時に菱香の門に入り、その後京都に出て塩川文麟に学んだ。山水、花鳥画を得意とし、京都、大坂ほか各地の共進会などで入賞し、門下生も多かったという。高岡の銅器、漆器及び染織図案の進歩に大きな役割を果たした。
ほかに幕末から明治初期に活動した高岡初期画壇の絵師に、三村石峰、桂静章、塩崎碧峰らがいる。
中川菱香(1812-1869)なかがわ・りょうこう
文化9年生まれ。名は文記。父親は尾張藩士。京都で四条派の松村景文に師事した。諸国遍歴ののち、高岡を訪れ木舟町の松田三知宅に寄宿し、大橋二水(十右衛門)の後援を得て高岡木町に定住した。写実に優れ、山水画を得意とした。「馬上読書図」や、四季を描いた花鳥図屏風や美人画などが残っている。明治2年、58歳で死去した。
佐伯春芳(1848-1901)さえき・しゅんぽう
嘉永元年生まれ。佐伯法州(青園)の子。高岡梶原町・重願寺住職。名は芳林。別号に法林がある。中川菱香に師事したのち、明治6年に京都に出て四条派の塩川文麟に学んだ。明治15年内国絵画共進会に協力し石川県令代理から褒状を受けた。浄源寺の板戸4枚に花鳥図を残している。明治34年、54歳で死去した。
三村石峰(1845-1882)みむら・せきほう
弘化2年高岡宮脇町生まれ。通称は長右衛門。幼いころから画を好み、文久2年に京都の中西耕石に師事し、10年の修業ののち明治5年に帰郷した。山水画を得意とし、当時の新川県令の山田秀典や参事の成川尚義らに厚遇され、越中画壇の泰斗と仰がれたという。明治15年、38歳で死去した。
桂静章(不明-不明)
高岡通り町の大工の子として生まれた。中島来章に学び、山水人物を得意とし幕末に活躍した。
塩崎碧峰(不明-1886)しおざき・へきほう
射水郡十村生まれ。四代目から寺小屋を開いた塩崎家(指物屋)の七代目。幼名は静一、重郎平。別号に静逸がある。父の重平衛とともに寺小屋に携わり、多くの門下生を育てた。絵画、謡曲、茶道、俳諧にすぐれた文化人で、子弟は100余名いたという。明治19年死去した。
富山(17)-画人伝・INDEX
文献:高岡の絵師、高岡市史中巻