鳥取で最初に南画を描いたのは、鳥取藩西舘藩士・建部樸斎(1769-1838)とされる。樸斎は、家督を継いだ24歳頃から経学を修め、書を学び、画をよくした。師系は明らかではないが、詩書画すべてに巧みで、画は好んで山水を描いた。画面構成は、近景に大樹を配し、これをもとに、山、飛泉、渓流を描き、草屋、人物を加え、上部に詩を入れるというスタイルで、赤鉄鉱の顔料である代赭をうっすらと施して藍を添えた「樸斎の赤山水」と呼ばれる清雅な作風を創造した。
建部樸斎(1769-1838)
明和6年鳥取生まれ。通称は東五郎、諱は嘉、字は遯夫、名は憲、あらためて穉。別号に黙斎、黙処、餐霞、敦今、糞叟、狄肉散人、黙庵などがある。曽祖父の七太夫の代から鳥取藩西館池田家に仕えた。少年のころは文学を好まなかったが、妻が鳥取藩の儒者で医者だった堀徴の妹であったことや、姉が儒者で詩文家の伊良子大洲の妻となったことにより、その影響を受けて学問を志したと思われる。寛政4年、父・文蔵の死により、24歳で家督を継いだ頃から、自ら経学を修め、詩を学び、書は中村元儀の流れを学んだ。西館当主・池田冠山に厚遇され、経書の講義をし、詩作の相手をした。40歳で退役してからは公務の務めを断り、風雅の世界に没頭し、晩年にいたるまで詩書画に専念し多くの山水図を残した。天保9年、70歳で死去した。
鳥取(7)-画人伝・INDEX
文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画