明治の文豪・森鴎外(津和野町生まれ、1862-1922)は、陸軍軍医、小説家、翻訳家など多方面で活躍したが、美術においても大きな足跡を残している。軍医だった鴎外が美術と深く関わるようになったのは、衛生学研究のために留学していたドイツで西洋芸術に触れたことであり、ミュンヘンで生涯の友となる画学生・原田直次郎(1863-1899)と知り合ったことにある。鴎外は原田の奔放な生き方に憧れ、自らも芸術の世界にかかわりたいと文筆を志し、二人は、国際的芸術都市・ミュンヘンで青春を謳歌し、お互いを高めあった。
明治21年、鴎外がドイツから帰国すると、一足先に日本に帰っていた原田の苦境を知ることになる。当時の日本の美術界は、洋画を排斥しようとする国粋的な風潮が高まっており、明治22年に開校した東京美術学校にも西洋科はなかった。それでも原田は日本初の洋画団体・明治美術会の結成に参加するなど洋画普及のため積極的に活動し、さらに本郷に画塾鐘美館を開設して洋画教育につとめた。
明治23年、原田が第3回内国勧業博覧会に出品し、のちに原田の代表作となる「騎馬龍観音」を巡って論争が勃発する。空想的神話世界を迫真的に描いたこの大作は大変な評判になったが、東京帝国大学教授・外山正一が「宗教心のない現代の画家は神仏を描くべきではない」などと酷評したのである。これに激怒した鴎外は、原田の擁護のために「外山正一氏の画論を駁す」という論文を発表、外山に反論した。この一連の批評が鴎外を美術評論家として印象付けるものとなった。
明治24年、東京美術学校の岡倉天心の依頼により鴎外は美術解剖学の講義をはじめる。鴎外はいつかは原田を教授に招くという野心を秘めつつこの依頼を受けたという。しかし、5年後、開明派の文部大臣・西園寺公望が美校改革に手をつけた頃には、原田はすでに病床にあり、明治32年、36歳で死去した。原田に代わって西洋画の指導者として美術学校に招かれたのは黒田清輝だった。
原田の没後も鴎外の美術活動は続き、美術界の重鎮として要職を歴任した。明治40年に文展が開設されると同時に第2部(洋画)の審査員となった。大正6年、55歳の時には帝室博物館の総長兼図書頭に就任。さらに大正8年に帝国美術院の初代総長となった。帝室博物館では、博物館が所蔵する図書に一冊ごとに丁寧な解説と、その著者に関する略伝を執筆した。しかし在任中の大正11年、60歳で死去した。
関連:岡山の近代洋画、松岡寿と原田直次郎
参考:UAG美人画研究室(原田直次郎)
島根(22)-画人伝・INDEX
文献:鴎外と画家原田直次郎、鴎外と美術展図録