三橋節子(1939-1975)は、農史研究者・三橋時雄の長女として大阪に生まれ、父の勤務地である京都大学近くの左京区北白川や浄土寺あたりで育った。4歳の時に画を細木成美に、習字を藤井思融に習いはじめた。
高校卒業後は京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)日本画科に進学し、猪原大華、上村松篁、奥村厚一、石本正、秋野不矩(参考)らに教えを受けた。なかでも秋野不矩からは美術についてだけでなく、生き方においても大きな影響を受けたという。
同大学在学中に新制作展に入選し、専攻科修了後は新制作協会日本画部(のちの創画会)に所属して新進日本画家として活動を始めた。はじめは野草や樹木を題材にすることが多かったが、28歳の時にインド・東南アジア研修旅行に参加してからは、アジアの人々を題材にすることが多くなった。
29歳の時に同じ日本画家の鈴木靖将と大津教会で結婚式をあげ、それを機に大津市の長等山麓に転居した。結婚後も新制作展に出品して受賞を重ねる一方で、二人の子供にも恵まれ、夫と日本画二人展を開催するなど、制作活動と家庭の双方で充実した時を過ごしていたが、昭和48年の1月、34歳の時に右肩鎖骨腫瘍がみつかり、利き腕である右腕の切断を余儀なくされた。
しかしその後も制作意欲を失うことなく、左手で絵筆を持ち、湖国に伝わる伝説を題材にして描き続け、「三井の晩鐘」「田鶴来」「鷺の恩返し」などを発表したが、同年12月、腫瘍の左肺への転移が発見され、再度入院して手術を受けたが、回復の見通しのないまま退院することとなった。
退院後は、残された時間のなかで、せめて子どもたちに絵本でも残してやりたいという思いから、絵本『雷の落ちない村』の原画を制作し、近江昔話を題材にした「羽衣伝説」「花折峠」(掲載作品)なども発表し、2度目となる夫との二人展も開催したが、昭和50年2月、転移性肺腫瘍のため35歳で死去した。
三橋節子(1939-1975)みつはし・せつこ
昭和14年大阪生まれ。父親の勤務地・京都市で育った。昭和29年鴨沂高校を卒業後、京都市立美術大学日本画科に入学し、主として秋野不矩に師事した。昭和36年同大学を卒業。在学中の昭和35年に第24回新制作展で初入選し、以後、新制作展日本画部(のちの創画会)に出品した。昭和42年インド・東南アジア古美研究旅行に参加。昭和43年鈴木靖将と結婚し大津市に転居。昭和44年第33回新制作展で新作家賞を受賞。昭和46年第35回新制作展で2回目の新作家賞を受賞。昭和48年「湖の伝説」を制作したあと鎖骨腫瘍のため右腕切断の手術を受け、以後は左手で制作した。昭和50年、35歳で死去した。
滋賀(52)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、近江の画人たち、滋賀の日本画