画人伝・滋賀 日本画家 風俗図・日常風景

彦根の歴史風景を記録画として描き残した上田道三

上田道三「明治六年 彦根土橋町辻の図」<br>三階建かしわ屋、牛肉すき焼村田屋、彦根郵便局電話交換室

上田道三「明治六年 彦根土橋町辻の図」
三階建かしわ屋、牛肉すき焼村田屋、彦根郵便局電話交換室

上田道三(1908-1984)は、彦根市に生まれ、尋常小学校6年の時に京都の義姉のもとに行き、その知人で日本画家の榊原紫峰の紹介で不染鉄の内弟子となり、奈良に居を移した不染について同地で画を学んだ。しかし、師の不染が関東に移ってその後消息を絶ったため、内弟子生活1年半少しで道三は京都に戻ることになった。

その後も絵の道をあきらめることなく、数年後の昭和7年、23歳の時に京都市立絵画専門学校に入学して同校研究科に進み、中村大三郎(参考)に師事した。研究科2年目に第1回新文展に初入選し、その後も新文展に入選を重ねたが、昭和21年、京都での画業に見切りをつけ帰郷した。これは新文展に何度挑戦しても入選止まりで入賞を逃したことがきっかけになったと思われる。

帰郷後は、彦根城のスケッチに専念し、古絵図や古文書も参考に制作を行い、大作「彦根城郭旧観図」を完成させた。この頃から自らの絵画を「記録画」と称し、城下の武家屋敷や街道沿いの古民家など、彦根とその周辺の歴史ある街並みを題材に、外観だけでなく、その歴史や由緒も丹念に調べて描くようになった。

こうした制作を続けた背景には、彦根を含めた滋賀の町が急速に変わっていくことへの嘆きと、これらを記録に留めなければならないという強い思いがあったと思われる。道三が残した「記録画」は、道三没後に彦根市に寄贈され、展示会や種々の印刷物などで活用され、昔を知る貴重な「記録」として親しまれている。

上田道三(1908-1984)うえだ・みちぞう
明治41年滋賀県彦根市生まれ。昭和2年頃不染鉄の内弟子となり奈良に転居。昭和4年頃師の染鉄が奈良を去ったため、数年、志摩、湘南、三宅島に遊んだ。昭和10年彦根城跡交友会展出品。昭和10年京都市立絵画専門学校専科を修了し研究科に進み、同年中村大三郎に師事した。昭和12年第1回新文展に初入選。同年京展入選。昭和14年第3回新文展入選。昭和15年京都市立絵画専門学校研究科卒業。昭和18年第6回新文展入選。昭和18年金鵄発祥地御聖地展宮内省蔵。昭和20年大東亜展入選。昭和21年第1回日展入選。同年3月まで京都市に在住し、同年4月彦根市に帰り、日本城郭資料画、記録図の制作を開始。昭和25年頃から城郭の資料集とスケッチに専念し、秀作・部分図、約50点完成。昭和30年「彦根城原形全景図」完成。昭和54年までに「武家屋敷および古民家絵巻集」総延長150メートルを制作。昭和33年「彦根城郭旧観全景図」完成。以後、多くの記録画を描いた。昭和59年、75歳で死去した。

滋賀(51)-画人伝・INDEX

文献:近江の画人、滋賀の日本画




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・滋賀, 日本画家, 風俗図・日常風景

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5