岩本周熙(1900-1987)は、滋賀県高島郡剣熊村(現在の高島市)に生まれ、4歳頃に京都に移住した。大正13年に京都市立絵画専門学校を卒業し、その後は、同校の教授だった菊池契月に師事した。同門に草津出身の野添平米がいた。
昭和10年に第1回京都市美術展覧会(京展)に、その翌年には第1回改組帝展に初入選し、その後も第2回京展、紀元2600年奉祝日本画大展、紀元2600年奉祝展、第6回文展などで入選・受賞を重ねた。
戦後は湖西に住んで、日展・新日展・改組日展と官展に出品を続け、昭和22年から始まった滋賀県美術展覧会(県展)でも受賞を重ねた。一貫して湖国風景を描き続け、制作のかたわら県内の中学校や高等学校などで講師として美術教育に携わった。
岩本周煕(1900-1987)いわもと・しゅうき
明治33年滋賀県高島郡剣熊村(現在の高島市)生まれ。本名は鉄之助。初号は白蛇、鉄之助。4歳頃京都府葛野郡朱雀村(現在の京都市)に移住した。大正13年京都市立絵画専門学校卒業後、菊池契月に師事し「周煕」と号した。昭和10年第1回京都市美術展覧会(京展)に初入選し、翌年の第1回改組帝展でも初入選した。その後も第2回京展で市長賞を受賞するなど各展で入選・受賞した。昭和19年高島郡高島町勝野に疎開し、その後は滋賀県を拠点に制作し、第5回日展、第7回日展、第3回関西総合美術展などに出品した。滋賀県美術展覧会(県展)では文部大臣賞、県知事賞、特選を連続受賞して無鑑査となった。昭和30年師の契月が没したため、以後は宇田荻邨に師事した。昭和35年には亡き師匠である契月の遺志を継ぎ、荻邨のもとで宮内庁が依頼した京都御所小御所の襖絵を担当した。昭和62年、87歳で死去した。
滋賀(41)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、滋賀の日本画