代々彦根藩主をつとめた井伊家に仕えた絵師については、その全貌はよくわかっていない。江戸の中橋狩野家をはじめ、狩野派の系統の絵師が召し抱えられていたとみられるが、新興の流派の絵師も採用されている。なかでも華々しい活躍をみせたのは、狩野永岳(参考)と佐竹永海の2人である。
佐竹永海(1803-1874)は、奥州会津の人で、蒔絵師の家に生まれた。若い頃は地元の狩野派・萩原盤山に学び、その後江戸に出て谷文晁の門に入り、文晁の筆法に琳派など多様な画派の趣向を加味し、幅広い作域の作品を残している。
永海が彦根藩に絵師として採用されたのは38歳の時で、採用には当時の藩主で井伊家12代の直亮の意向が強く働いたとみられ、御殿の障壁画制作などの藩の御用に加え、直亮個人の私的な御用も担当している。永海の仕事は、直亮の趣味の雅楽器蒐集にあたっての保存箱の蒔絵の下絵制作をはじめ、画を描くだけでなく、絵画購入の仲介や画の鑑定など多岐にわたっている。
永海は基本的に江戸に滞在し、広く画の注文を受け、江戸での出版物の挿絵や奉額なども描いていることから、彦根藩専属ではなかったとみられるが、直亮が国元に帰る際にはお供して彦根を訪れている。彦根藩の終焉まで御用を続け、それ以降も華族となった井伊家の御用をつとめた。
佐竹永海(1803-1874)さたけ・えいかい
→会津を離れ彦根藩御用絵師となった佐竹永海
滋賀(17)-画人伝・INDEX
文献:彦根ゆかりの画人、近江の画人、近江の画人たち