中島来章(1796-1871)は、大津または信楽に生まれたと伝わっているが、出生地は定かではない。幼いころから画を好み、9歳の時に画を学ぶため京都に出たという。京都では円山応挙門下の十哲に数えられる渡辺南岳に師事し、南岳のもとで装飾性の強い花鳥画を学び、南岳没後は、応挙の長男である応瑞に学び、山水人物花鳥の筆法を修めた。
『平安人物志』によると、本来の姓名は並河宇次郎といい、父彦兵衛も「源章」と名乗る絵師だった。来章も文化10年当時には源来章と名乗り、京都の四条高倉西に父とともに住んでいたが、文政5年に大津に移り住んだ。この時にはすでに父は没していたと思われる。その8年後の文政13年に京都に戻って衣棚御池北に住み、天保9年には富小路姉小路北に移って、姓を中嶋(島)に改めている。
幕末における円山派を代表する絵師で、四条派の横山清暉、塩川文麟、岸派の岸連山とともに、幕末の平安四名家と呼ばれた。4人のなかでも、清暉と来章が中心的存在だったと思われ、来章の写生を基調にした洒落た花鳥画は、京都・近江の商人たちにも人気を博し、名実ともに当時の画壇の第一人者として認められていたと思われる。
門下からは、幸野楳嶺や川端玉章、金工の加納夏雄ら明治の美術界を代表する作家たちが出ている。
中島来章(1796-1871)なかじま・らいしょう
寛政8年信楽または大津生まれ。旧姓は源、字は子慶、別号に春分斎、通神堂などがある。はじめ渡辺南岳に学び、ついで円山応瑞に師事した。幕末から明治時代にかけて活躍し、横山清暉、岸連山、塩川文麟らと共に平安四名家と呼ばれた。門人に実子の中島有章のほか、幸野楳嶺、川端玉章、藤井松林、加納夏雄らがいる。明治4年、76歳で死去した
滋賀(15)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、近江の画人たち