肥前佐賀藩三代藩主・鍋島綱茂(1652-1706)は、博学で諸芸に通じ、才智無双の殿様として世人に称嘆されたという。幕府の学問を司っていた林家一門、殊に林鳳岡や人見竹洞と懇意にしており、鳳岡、竹洞の詩文集にもしばしばその名がみられる。二代藩主・勝茂の頃までは乱世の時代で、佐賀藩としても儒者を召し抱えることはなく、文章などを書くのは主に僧侶だったが、三代綱茂は学問を好み、詩や書画をよくし、自らも致徳斎と号して画をよくした。それに呼応するかのように綱茂の時代には絵師の名が多くみられる。佐賀市の「与賀神社縁起図」を描いた永永松玄偲(不明-不明)をはじめ、成富独幽、成富峰雪、医術で本藩に仕えながら達磨の画をよくした馬渡高雲らが活躍した。さらに、元禄期の一時期だが、中国から渡来した黄檗僧逸然の画風を汲む河村若元が綱茂に任用された。
鍋島綱茂(1652-1706)
慶安5年江戸生まれ。肥前佐賀藩三代藩主。二代藩主・鍋島光茂の長男。母は上杉氏。幼名は彦法師丸、のちに左衛門佐といった。号は致徳斎、休復、松柏堂、活水、静観堂、適和などがある。文学を好み、詩歌書画をよくし、将軍綱吉に面前で経書を輪講した。父・光茂の建てた「二の丸聖堂」を、西御屋敷に移し拡張するなど、文教の興隆をはかった。著書に『観頤荘記』がある。宝永3年、55歳で死去した。
永松玄偲(不明-不明)
友関斎の子。永松秀精の父。佐賀藩二代藩主・光茂は取り立てられ、延宝6年光茂の夫人に請われて「与賀神社縁起図」を描いた。鹿島市の普明寺に伝わる「涅槃絵」も玄偲の作と伝わっている。
永松秀精(不明-不明)
名は源左衛門。元鍋島弥平左衛門の家臣だったが、寛保2年に絵師として本藩に召し抱えられた。
成富独幽(不明-不明)
名は茂階。諫早三代領主・諫早茂敬の子。のちに成富兵庫助茂安の養子となり、佐賀成富家を名乗った。初代広渡心海に師事した。別号に白雲軒月階がある。
成富峰雪(不明-不明)
元禄の頃の人
馬渡高雲(不明-不明)
医を以って本藩に召された。達磨の画をよくした。元禄中頃の人。
佐賀(2)-画人伝・INDEX
文献:鍋島綱茂の文芸、肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画