
森琴石「山水図」泉屋博古館東京蔵
森琴石(1843-1921)は、摂津国有馬郡湯元(現在の兵庫県神戸市北区有馬町)の梶家に生まれ、3歳の時に大坂の森家の養子となった。鼎金城に師事して南画を学び、のちに忍頂寺静村にもついた。また、高木退蔵や妻鹿友樵からは漢学を学んだ。明治初期に東京に出て高橋由一に洋画を習い、その後は諸国を遊歴し、胡鉄梅や王冶梅ら来舶清国画人たちとも交流した。
明治17年に樋口三郎兵衛が設立した私立浪華画学校の支那画教員となったが、この頃から画家として社会的に認識されるようになったと思われる。大正2年には大阪の画家として初めて文展の審査員に選ばれた。南画家としてだけでなく、響泉堂の名で銅版画家としても活動し、地図や刊行物を多く残した。
森琴石(1843-1921)もり・きんせき
天保14年摂津国有馬郡湯元(現在の兵庫県神戸市北区有馬町)生まれ。梶木源次郎の四男。名は熊、字は吉夢。別号に金石、鉄橋道人、雲根館などがある。画室名は聴香読画廬。3歳で大坂の森猪平(善蔵)の養子となった。鼎金城と忍頂寺静村に南画を、高木退蔵や妻鹿友樵に漢籍を学んだ。明治初期には東京に出て高橋由一に洋画を学んだ。明治13年『墨香画譜』、明治14年銅版画による『題画詩集新編墨場必携』を刊行。明治14年第2回内国勧業博覧会に大阪から銅版画を出品。明治17年に設立された浪華画学校の教員となった。明治23年第3回内国勧業博覧会に出品。明治27年日本美術協会秋季展覧会で3等賞銅牌。明治31年日本絵画協会第5回展で2等褒状。明治31年頃より扶桑絵画協会の会員として活動。明治33年パリ万博に出品。明治39年賞勲局から銀杯。大正2年第7回文展で審査員。大正4年第1回大阪美術展で後見をつとめた。大正10年、78歳で死去した。
大阪(85)-画人伝・INDEX
文献:サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、大阪の日本画、上島鳳山と大阪の画家たち