
河辺青蘭「態濃意遠図」
河辺青蘭(1868-1931)は、徳川幕府の御用銅吹業を営んでいた河辺伊右衛門の三女として改元前の大坂南堀江(現在の西区)に生まれた。幼いころから画を好み、10歳で巽蓼湾に絵画と茶技を学び、さらに橋本青江に入門して南画を18歳まで5年間学んだ。また、妻鹿友樵に詩文を、寺西易堂と村田海石に書法を学んだ。
内国勧業博覧会などの展覧会への出品や受賞を通じて名を知られるようになり、明治36年に泉布観での昭憲皇太后の御前揮毫を行ない名声を博した。大正2年には青蘭作品の収集家が愛蔵品を出陳する「青蘭画会」が開催されるなど、地元で多くのパトロンに恵まれ、最晩年まで大阪画壇を代表する画家として活躍した。
また、画塾を開いて多くの後進を育成し、清娯会、友蘭会、蘭友会などを主宰した。門下生には良家の子女が多く、主要メンバーとしては池田青溪、今井蘭溪、岡本香園、塩釜青竹、松野露香、宮崎青邨、山田蘭涯、渡辺花仙らがいる。
河辺青蘭(1868-1931)かわべ・せいらん
慶応4年大坂南堀江生まれ。住友銅吹所の御用をつとめる河辺伊右衛門の三女。名は元子、またはモト。別号に碧玉、蕉雪軒がある。幼いころから書を寺西易堂、村田海石に、詩文を妻鹿友樵に学んだ。明治14年から橋本青江に師事し南画を学んだ。明治23年第3回内国勧業博覧会で褒賞を受け、英照皇太后御買上げとなった。明治36年昭憲皇太后の大阪行啓時に御前揮毫した。夫・尚謙との間に一男一女をもうけた後も画家として活動した。大正元年頃には画塾で約30名の女性を指導。大正15年と昭和2年に大阪長堀橋の高島屋で個展。昭和3年には東京の高島屋で個展を開催した。大正時代には大阪市南区(現在の中央区)に住み、晩年は神戸市岡本に移り住んだ。昭和6年、64歳で死去した。
池田青溪(1884-不明)いけだ・せいけい
明治17年現在の広島県福山市生まれ。池田清謙の長女。本名は愛。幼いころから画に親しみ、河辺青蘭に南画を学び、のちに水田竹圃にも師事した。19歳の時に後の昭憲皇太后の御前揮毫をつとめるなど早くから才能を発揮した。竹圃らが創設した日本南画院に出品した。大正13年漢学塾・泊園書院に入塾。最初の師である青蘭の画風をよく引き継いだが、大正末から昭和初期にかけて近代的な感覚を取り入れた画風を展開させた。
渡辺花仙(1889-1975)わたなべ・かせん
明治22年大阪船場(現在の大阪市中央区)生まれ。坐摩神社宮司・渡辺敏雄(号は梅涯)の三女。本名はカツ、通称は和子。初号は小琴。幼いころから画を好み、堂島高等女学校(現在の大手前高等学校)を卒業後、河辺青蘭に入門し9年間学び、はじめ小琴と号し、大正中頃から花仙と号した。絵画のかたわら藤沢南岳に詩文を学んだ。青蘭門下の古参者で組織する清娯会に参加し、青蘭門下の新入者が集まる友蘭会では指導にあたった。生涯独身で制作を続け、第二次世界大戦中は次姉が暮らす愛媛県新居浜に妹とともに疎開。終戦後に大阪に戻り、兄が宮司をつとめる坐摩神社の境内で妹とともに暮らした。昭和50年、86歳で死去した。
今井蘭溪(不明-不明)いまい・らんけい
河辺青蘭に師事した。『大日本絵画著名大見立』によると、夫が勤務する福島紡績株式会社(現在のシキボウ株式会社)に近い大阪市下福島二丁目に住んでいた。大正5年4月11日付の『大阪時事新報』は、蘭溪など河辺青蘭門下の清娯会七人衆の活躍が目立つと報じている。昭和12年刊『改訂古今書画名家一覧表』には「現代閨秀各派名家」の欄に名前が掲載されている。昭和7年頃には京都市内に住み、佐伯姓でも活動した。
大阪(82)-画人伝・INDEX
文献:サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、江戸時代の女性画家、大阪の日本画、女性画家たちの大阪