歌川貞升をはじめ、貞広、貞芳は、江戸の初代歌川国貞に師事し歌川姓を名乗ったが、いずれも上方の好みに合わせた画風で役者絵を描いた。天保13年の天保の改革による役者絵版行の禁止により5年余りの画業の中断を余儀なくされたが、その間も各々の作画活動を続けている。
歌川貞升(不明-不明)うたがわ・さだます
大坂の人。江戸の初代国貞の門人。天保3年から安政元年頃の作画が確認できる。天保の改革によって嘉永元年まで画業を停止していたが、再開する際には国升と絵師名を改めた。天保の改革以後、中判錦絵が主流となってからは表情豊かな大首絵を描いた。嘉永5年には江戸に出て三代豊国と合作した。
歌川貞広(初代) (不明-不明)うたがわ・さだひろ
大坂の人。江戸の初代国貞の門人。文政13年頃から嘉永5年頃まで作画した。天保15年9月には、天保の改革による役者絵の版行禁止期間中でありながら堺新地南芝居で上演された「和田合戦女舞鶴」にちなんだ摺物に挿絵を描いている。
歌川貞芳(不明-不明)うたがわ・さだよし
大坂の人。江戸の初代国貞の門人と思われる。天保3年から嘉永5年頃に作画した。天保の改革後の嘉永3年から5年にかけて上方では中判が一般的だった時期に大判作品を手掛けている。
国計(不明-不明)くにかず
大坂の人。江戸の初代国貞の門人と思われる。安政3年から5年の期間に作画したのみの寡作の絵師。
大阪(68)-画人伝・INDEX
文献:上方の浮世絵-大坂・京都の粋と技、日本の浮世絵美術館巻五