長谷川貞信(1809-1879)は、大坂の安堂寺町浪花橋にあった茶巾袱紗商の奈良屋に生まれた。はじめ四条派の上田公長に師事したが、生家が没落したため収入を得やすい浮世絵を学ぶため歌川貞升や柳斎重春に師事したと思われる。江戸の浮世絵師国芳(参考)を思わせる健康的な美人画を描くなど幅広い分野で作画し、文政6年頃から明治期に活躍した。
役者絵における人物描写は、それまでの画系とは異なり、顔の比重が小さく均衡がとれており、以後この貞信の全身像のバランスが上方役者絵の標準となった。大判役者絵の最後の人とされるほど意欲的に制作していたが、天保の改革で役者絵が禁じられたのを機に風景画に転向し、上方風景画の代表的絵師となった。
長谷川貞信(初代)(1809-1879)はせがわ・さだのぶ
文化6年生まれ。大坂の人。名は貞信、俗称は文吉、徳兵衛、貞宜、有長。南窓楼、猶園、浪華亭、雪花園、五双亭、蘭考、信翁、信天翁などと号した。はじめ上田公長の門に入り、のち浮世絵師となるため歌川貞升、さらに柳斎重春に学んだという。最後の大判役者絵師と呼ばれたが、天保の改革を境に風景画に転向し、上方風景画の代表的画家となった。著書として『夏祭浪花鑑』『粋の懐』『浪花自慢名物尽』などがある。明治11年、長男の小信(二代貞信)に貞信の号を譲って隠居。明治12年、71歳で死去した。
大阪(65)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、上方の浮世絵-大坂・京都の粋と技、日本の浮世絵美術館巻五