岡田玉山(不明-不明)は、月岡雪鼎の門に学び、風俗人物を得意とし、花鳥山水も描いた。当時の上方における絵本挿絵の第一人者で、緻密で大胆な描写を打ち出して表現の新境地を開き、近世刻版密画の開祖とされている。
北渡辺町に住み、寛政2年にはすでに法橋に叙されていたと思われる。従来物や絵本などを手広く手掛け、代表作の『絵本太閤記』をはじめ、『住吉名勝図会』『唐土名勝図会』といった地誌に名作を残した。
岡田玉山(不明-不明)おかだ・ぎょくざん
名は尚友、字は子徳。別号に金陵斎がある。月岡雪鼎門、あるいは蔀関月門と伝わっている。『増補浮世絵類考』に近世版刻密画の開祖で、画法筆力古今に秀でていると記されている。当時の上方における絵本挿絵の第一人者で、巧繊微細な挿絵作品が多い。寛政2年には法橋に叙されていた。『絵本太閤記』『唐土名勝図会』『絵本玉藻潭』などに巧繊微細な挿絵を多く手掛けた。没年に関しては『浮世絵類考』などに文化9年に76歳没とあるが、文化5年4月に出願された版本に「故人」とあることと、文化3年の出願時には生存が確認されていることから、この間に没したと推測される。
石田玉山(不明-不明)いしだ・ぎょくざん
大坂の人。名は修徳、字は子秀、初号は石峯、別号に玉峰、蓼辛斎などがある。岡田玉山に師事し、のちに二代目玉山を名乗ったと思われる。岡田玉山と石田玉山は混同して伝わることも多く、大坂の史料類では石田姓の方を玉山二代目とするが、『増補浮世絵類考』『武江年表』は逆に伝えている。また、『類考』に記される法橋の初代玉山は、『郷友・寛二』から岡田姓と認められ、文化または文政の初め頃に江戸に出て神田紺屋町に住み、その後行方をくらましたという二代目玉山とは別人であると思われ、こちらが石田姓の玉山と推測される。
大阪(42)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、大阪名家著述目録、近世の大阪画人