
岡本成薫「山茶花」
若くして官展で活躍し全国的に名声を得た島成園(参考) のもとには、各地から弟子志願者が集まり、多くの女性が門下生として学んだ。成園が結婚し、夫の転勤に同行して画壇から離れてからは、一部は中村貞以(参考) や菊池契月(参考) の門に移ったが、多くの門下生の画業が不明となった。そんななか、岡本成薫は、終生成園と行動をともにし、成園の没後は養女となった。
岡本成薫(1907-1992)は、酒道具等を商う卸し小売業を営む岡本喜兵衛の二女として大阪市南区に生まれ、島成園宅に内弟子として入門した。成園が結婚してからは、成園の夫・森本豊治郎の赴任地である小樽に転居、以後国内外への転勤に同行した。戦後大阪に戻ってからは成園との二人展や個展を開催し、成園没後は森本豊治郎の養女となった。
菊池成輝(1871-1934)きくち・せいき
明治4年長崎県西彼杵郡上長崎村(現在の長崎市)生まれ。軍人・白江景由の二女。本名はスマ。明治19年海軍省職員の菊池恭三と結婚。夫はその後大阪造幣局を経て実業家に転身し、大日本紡績(現在のユニチカ)社長、貴族院議員などを歴任した。家庭内に使用人が多くなるにつれ、スマは趣味を広げ、長唄を杵屋君七郎に、謡曲を大西亮太郎に、琵琶を島旭波に師事した。幸流の皷、観世流謡曲などにも造請が深かったという。大正期に島成園に師事し、女性画を描いた。昭和9年、63歳で死去した。
→参考:UAG美人画研究室(菊池成輝)
平山成翠(不明-不明)ひらやま・せいすい
福岡市生まれ。本名は武。東京の日本女子大学校に在学中の大正元年に文展で島成園の作品をみて強く憧れ、その後卒業を待たずに大阪に移り、島之内の成園宅前に住んで成園に師事した。大正4年第1回大展に入選。大阪での活動は10年未満だったと思われ、現在確認できる作品は5作に満たない。
宮本成操(不明-不明)みやもと・せいそう
島成園に師事した。大正4年第1回大展に入選。確認できる作品は少なく、歌舞伎や能といった日本の伝統的な演劇を題材にして女性画を描いたと思われる。
伊東成錦(1897-不明)いとう・せいきん
明治30年高知県生まれ。本名は清女(清)。大正3年頃島成園の名声を頼って大阪に来て内弟子となった。大正8年第5回大展出品。大正9年6回展出品。大正9年第2回帝展に初入選。大正11年第1回白耀社展出品。結婚して十萬姓となり京都市深車に住んだ。
→参考:UAG美人画研究室(伊東成錦)
中島成秋(不明-不明)なかじま・せいしゅう
本名は千枝子。島成園に師事した。大正9年第6回大展出品。大正11年第8回大展出品。
三笠成雅(不明-不明)みかさ・せいが
島成園に師事した。書画家番付にも登場し、昭和10年に福本五嶺が日本美術通信社から発行した「日本現代画家一覧表」には「各地閨秀作家」の欄に名が掲載され、当時は大阪市住吉区に居住していた。
中島成薫(不明-不明)なかじま・せいくん
本名は園子。島成園に師事した。大正12年第9回大展出品。大正13年から翌年にかけて成園塾から菊池契月門に移り雅号を園子に変えたと思われる(成薫の雅号は後に岡本成薫が使用した)。大正14年第6回帝展に園子の名で入選。菊池契月の塾展に参加し、大阪市北区相生町(現在の都島区)に居住した。同じ契月門の藤本孝と結婚し、藤本姓でも活動した。
秋田成香(1900-不明)あきた・せいこう
明治33年大阪府堺市生まれ。本名は政子。実家は道具屋。島成園に師事した。大正6年第3回大展出品。大正7年第4回大展出品。大正8年第5回大展出品。大正9年第2回帝展に初入選。大正11年第1回白耀社展に出品。大正13年第10回展出品。柔らかい筆致で子供の世界を描き、成園が示した傾向を受け継いだ。
→参考:UAG美人画研究室(秋田成香)
金澤成峰(不明-不明)かなざわ・せいほう
島成園に師事した。成峰・成峯と号した。大正12年第9回大展出品。大正13年第2回日本自由画壇展に出品、同14回展、15回展にも出品。昭和5年発行の「日本現代画家一覧表」には「各地写生派閨秀画名人席」の欄に名が掲載され、住所は京都市外花園五反田とある。
小寺成春(不明-不明)こでら・せいしゅん
本名は敏子。島成園に師事した。大正12年第4回女流展に出品、同6回展、8回展、9回展にも出品。大正14年第3回日本自由画壇展に出品。
阪野成蝶(1903-不明)さかの・せいちょう
明治36年大阪生まれ。本名は千代枝。府立市岡高等女学校卒業後、相愛高等女学校高等科に進み、大正8年同校を卒業後、島成園に師事した。大正11年第1回白耀社展に出品。大正13年第1回大阪市美術協会展出品。大正13年頃大阪市西区新町南通に住んでいた。本庄姓になった。
岡本成薫(1907-1992)おかもと・せいくん
明治40年大阪市南区末吉橋通四丁目生まれ。酒道具等を商う卸し小売業を営む岡本喜兵衛の二女。本名は美津子。大正11年大阪市立育英高等女学校卒業。大正15年父死去のため島成園宅に内弟子として入門した。昭和8年第1回大阪女流画家展出品。昭和9年第20回大展出品。昭和10年第21回大展出品。昭和11年第22回大展出品。昭和11年青龍社第8回展に初入選。同9回展、10回展に出品。昭和12年成園とともに成園の夫・森本豊治郎の赴任地である小樽に転居、以後国内外への転勤に同行した。昭和12年北海道展に出品。戦後は昭和35年から44年まで大阪女人社展に毎年出品。昭和38年から43年まで毎年高島屋大阪店で島成園と二人展。大丸大阪店で個展開催。成園死去の翌年の昭和46年森本豊治郎の養女となった。昭和63年京都市上京区に転居し晩年を過ごした。平成4年、85歳で死去した。
吉岡美枝(1911-1999)よしおか・みえ
明治44年大阪市西区西道頓堀生まれ。本名は美枝子。12歳頃阿倍野区阪南町に転居。昭和4年私立大谷高等女学校を卒業後、大阪府立女子専門学校に進学したが病気のため中退。昭和6年から島成園に師事し「成纓」と号した。昭和11年第3回大阪女流展に出品。昭和12年頃から中村貞以に師事、雅号を「美枝」に変えた。貞以塾の第5回春泥会展に出品し、以後最終の第20回展まで毎回出品し、その後長谷川青澄に師事した。昭和14年再興第26回院展に初入選。昭和18年院友に推挙され、その後も院展に出品し、京都市展、朝日展、青桃会展などにも出品した。独身を通し、戦後も大阪の院展作家として活動した。昭和43年豊中市本町に転居。昭和50年頃制作のため韓国を旅行。大阪府警月刊誌「なにわ」の表紙画を30年以上担当。昭和51年の「邦楽の友」表紙絵、新聞連載の挿画なども手掛けた。平成11年、87歳で死去した。
→参考:UAG美人画研究室(吉岡美枝)
大阪(125)-画人伝・INDEX
文献:女性画家たちの大阪、島成園と浪華の女性画家