画人伝・大阪 日本画家 人物画 美人画・女性像

北野恒富門下の「雪月花星」

四夷星乃「蛍美人図」

四夷星乃「蛍美人図」

北野恒富参考)が大正3年に設立した画塾「白耀社」は、大阪の若手日本画家の研鑽の場として大きな機能を果たした。当時としては珍しく男女共学で、リベラルな雰囲気が魅力で女性会員も多く、女性の割合は4割という高い比率だったと思われる。

恒富は白耀社の結成前から門弟をとっており、明治43年に入門して2年後に恒富宅で内弟子となった樋口富麻呂が白耀社の世話などをし、中村貞以、生田花朝女らもここで学んだ。会員構成は同人、白部会員、耀部会員の3段階があり、同人になるには恒富の推薦が必要で、耀部会員から白部会員になるには同人たちの決議による推薦が必要だったという。

会員の発表の場となる白耀社展も開催され、大正11年の第1回展から大正13年の第3回展までは島成園、木谷千種の画塾が参加したこともあり、参加者全体の半分を超す女性の数だったという。会場は三越や高島屋といった百貨店で、昭和5年頃まで8回ほど開催され、恒富も作品を出品していた。

白耀社からは多くの女性画家が誕生し大阪画壇で活躍したが、なかでも星加雪乃、別役月乃、橋本花乃、四夷星乃の4人は、雅号の一部を取って「雪月花星」と称され、人気を博した。

星加雪乃(1900-1989)ほしか・ゆきの
明治33年大阪市生まれ。本名は操子(ミサヲ)。永松春洋門の星加鴨東の長女。大正2年北野恒富に入門した。大正6年大阪府立梅田高等女学校の本科卒業後、専科で2年間学んだ。大正7年第4回大阪美術展覧会に初入選し、以後同展に出品。大正10年第3回帝展に入選。大正11年第1回白耀社展に出品。大正12年日本美術展覧会、日本美術院第9回試作展に出品。大正14年向日会の結成に参加。恒富の美人画を師承するとともに、花鳥や静物にも取り組んだ。戦後は大阪府立農学校に15年間つとめて絵画を教えた。晩年は大阪府松原市に住んだ。妹の星加辰子は姉とともに恒富に学んだのち菊池契月参考) 塾に移った。平成元年、89歳で死去した。
→参考:UAG美人画研究室(星加雪乃)

別役月乃(1901-不明)べっちゃく・つきの
明治34年高知県生まれ。本名は光子。15歳頃から画をはじめ、18歳頃に北野恒富に師事した。大正7年第4回大阪美術展覧会に初入選。大正9年第2回帝展に入選。大正11年第1回白耀社展に出品。大正12年日本美術展覧会、日本美術院第9回試作展に出品。大正14年向日会の結成に参加。恒富風の美人画を受け継ぎ、四季折々の行事にいそしむ若い女性を描いた。

橋本花乃(1897-1983)はしもと・はなの
明治30年大阪市生まれ。本名は阿以、通称は愛子。眼を患い、女学校を中退して14歳頃に北野恒富の内弟子となった。大正8年第5回大阪美術展覧会に初入選。大正9年第2回帝展に入選。大正11年第1回白耀社展に出品。大正14年向日会の結成に参加し、大阪女流画家展に参加。昭和7年に結婚した後も城田花乃の名で制作を続け、戦後は大阪女人社同人として活動、大美展に無鑑査で出品した。昭和58年、86歳で死去した。
→参考記事:UAG美人画研究室(橋本花乃)

四夷星乃(1901-1965)しい・ほしの
明治34年大阪市生まれ。本名はキシ。大阪府立清水谷高等女学校在学中から北野恒富のもとに出入りし、大正9年同校卒業後、本格的に師事した。恒富の没後は中村貞以に師事した。大正10年第7回大阪美術展覧会に初入選。大正11年第4回帝展に初入選。同年第1回白耀社展に出品。大正14年向日会結成に参加し、大阪女流画家展に参加。昭和9年創立の関西女子美術学校で助教授として日本画を教えた。昭和13年再興第25回院展に初入選し、以後院展に出品し、昭和18年院友となり、以後院展と春泥会を中心に活動した。昭和40年、64歳で死去した。

大阪(119)-画人伝・INDEX

文献:大阪の日本画、女性画家たちの大阪、島成園と浪華の女性画家




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