柴田義董の岡山の門人としては、小野雲鵬(1796-1856)がいる。雲鵬は備中の生まれで、はじめ黒田綾山に手ほどきを受け、京都に出て同郷の柴田義董の門下となり、義董没後は岸駒にも学んだ。同門に大原呑響の養子・大原呑舟(1792-1857)がいる。雲鵬と呑舟の親交は深く、京都在住時代は同居して修業に励み、その頃の貧窮ぶりは京都の戯れ歌になるほどだったという。
小野雲鵬(1796-1856)
寛政8年生まれ。名は機、字は世張、通称は貞三郎。初号は湘雲。浅口郡船穂の人。はじめ黒田綾山について南画を学び、のちに京都に出て柴田義董の門に入った。さらに義董の没後は岸駒に学んだ。修業を終えて帰郷し、号を雲鵬に改め、丹波亀山藩の飛地だった玉島長尾に居を構えて、在地のまま亀山藩の御用絵師をつとめた。安政3年、63歳で死去した。
大原呑舟(1792-1857)
寛政4年生まれ。名は鯤。別号に鯤崘、崑崙などがある。京都の人。大原呑響の養子。画を柴田義董に学び、山水、人物をよくした。同門の小野雲鵬との親交は深く、京都では同居していた。義董や雲鵬との関わりから、岡山県内各所で作画しており、極彩色の襖絵や、大作の絵馬などが伝わっている。安政4年、66歳で死去した。
片岡簡斎(不明-不明)
文化文政頃の人。邑久郡幸島村大字南幸田生まれ。名は孚、字は嘉郷。歌人・片岡春及の二男。柴田義董に師事した。兄・魯軒は書、剣法をよくした。
柴田義峰(不明-不明)
邑久郡尻海の人。柴田義董の子。岡本豊彦に師事して山水人物をよくした。
河田雲岫(不明-不明)
幕末の人。吉備郡薗村有井生まれ。名は庸、通称は仙蔵。小野雲鵬に画法を学び、妙手と称された。
中原龍鱗(1824頃-1901)
文政7年頃生まれ。名は重四郎、初号は星巒。山田方谷、鎌田玄渓に漢書を学び、小野雲鵬に画法を学んだ。のちに塾を起こして子弟を教え、堀尾虬淵と交友した。明治34年、77歳で死去した。
岡山(14)-画人伝・INDEX
文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典