画人伝・奈良 洋画家 幻想画

東大寺の散華、絵馬の図案を長くつとめた杉本健吉

杉本健吉「雪散華」

杉本健吉「雪散華」

杉本健吉(1905-2004)は、浄瑠璃三味線の師匠の子として愛知県名古屋市に生まれた。愛知県立工業学校図案科卒業後は、岐阜の織物商などで図案を担当していたが、昭和2年に独立してデザイン事務所を開設、名古屋市営地下鉄のシンボルマークなどを手掛けた。

画業では、昭和6年に国画会展に初入選し、その後は、終戦の年の会の休止を除いて、昭和44年の第43回展まで同展に出品を続けた。その間、岸田劉生に師事し、昭和15年春陽会展に出品、昭和46年に画壇を離れるまで、文展、日展で受賞するなど官展でも活躍した。

昭和15年頃、東大寺住職の上司海雲と出会ってからは「奈良通い」が始まった。当時、上司が塔頭をつとめていた東大寺観音院は、多彩な文化人が集まる文化サロンの役割を果たしており、ここでの出会いは杉本の後の人生を決定づけるものとなった。

写真家の入江泰吉とはジャンルを越えて生涯の友となり、小説家の吉川英治との出会いから、吉川が「週刊朝日」に連載した小説『新・平家物語』の挿絵を昭和25年から7年間担当し、杉本の名は全国的に知れ渡るようになった。

昭和24年からは東大寺観音院の蔵を改装した住居兼アトリエで制作し、東大寺など奈良の風景を描くとともに、東大寺の絵馬、散華などの原画制作も長年つとめた。絵馬は、昭和47年から没する平成16年まで図案を描き下ろし、没後3年間も生前描いた作品から図案を探して使われた。

また、昭和30年に東大寺大仏開眼千二百年法要で「散華」の図案を手掛けて以降、東大寺の主要な法要で「散華」の図案を担当した。散華とは法要の儀式で「散華」を唱える際に撒かれる蓮の花びらのことで、実際には花びらの形を模した紙が用いられた。掲載の「雪散華」は、その様子を幻想的に描いたもの。

杉本健吉(1905-2004)すぎもと・けんきち
明治38年愛知県名古屋市生まれ。大正12年愛知県立工業学校図案科卒業。昭和6年から国画会展に出品し、昭和13年同人となった。昭和17年第5回文展で特選、昭和20年第1回日展で佐分賞受賞、昭和21年第2回日展で特選。昭和25年から吉川英治の「新・平家物語」の挿絵を7年間担当。昭和46年に画壇を離れて制作を続けた。昭和58年大阪市天王寺の障壁画「聖徳太子絵伝」を制作。平成16年、98歳で死去した。

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文献:美の新風奈良と洋画、描かれえた大和、杉本建吉画文集 東大寺 美の小箱




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