松代藩に任えた絵師として記録上最も早く登場するのは、三村自閑斎(不明-不明)である。自閑斎は、一郎平と名乗り、藩評定所の絵図書をつとめていたとされ、現在残る作品も絵図に類するものである。師系は不明だが、狩野派に学んだ可能性が高い。生没年も不明で、子の養益が家督を継いだのが寛政8年であることから、この年が自閑斎の隠居か死去の年だと推測されている。
自閑斎の子・三村養益(1759-1834)は、松代藩江戸詰めの絵師で、幕府御用絵師の狩野養川院惟信に入門して、江戸木挽町狩野家の長屋に住んで用人をつとめていた。寛政元年に御次小姓格御絵師として召し出され、寛政8年家督を継いだ際に給人格となった。栄川院典信の晩年から、養川院惟信、伊川院栄信、晴川院養信の初期にかけ長年にわたって狩野家と関わりを持ち、隠居した六代藩主・真田幸弘や七代藩主・真田幸専の御側絵師をつとめた。
三村養益の子が三村晴山(1800-1858)で、藩絵師の家に生まれたことから早くから画に親しみ、12歳で木挽町狩野家に入門、伊川院栄信や晴川院養信に学び、晴川院の一字を許されて晴山と号した。14歳で松代藩の絵師になったが、藩の御用だけでなく、晴川院のもとで江戸城の障壁画制作などの幕府の御用もつとめた。また、八代藩主・真田幸貫の密命を受け、佐久間象山、勝海舟らと交わって国事に奔走したとも伝わっている。
弘化3年、晴川院養信の死去により子の勝川院雅信の後見役顧問となり、画塾の塾頭をつとめた。この時期に、狩野芳崖や橋本雅邦も晴山の教えを受けており、芳崖が描いた晴山の肖像画が2点残っている。
晴山は養子を迎え、養民と名乗らせたが、晴山より先に没したため、養民の子鋠太郎(号は琴斎か)が晴山のあとを継ぎ、明治をむかえた。
三村自閑斎(不明-不明)みむら・じかんさい
名は一郎平、諱は賀千。眠華自閑斎といい松代藩真田家に絵図師として仕えた。五代藩主・真田信安、六代藩主・真田幸弘に仕えていたと推測されており、絵師としての活躍期は、松代藩中興の祖と称される幸弘の治世とほぼ一致していると考えられる。
三村養益(1759-1834)みむら・ようえき
宝暦5年生まれ。三村自閑斎の子。名は力三郎、諱は惟芳。六代藩主・真田幸弘、七代藩主・真田幸専の二代にわたり松代藩江戸詰の絵師として仕え、狩野養川院惟信の門人として、江戸木挽町狩野家の長屋に住んで用人をつとめた。天保5年、80歳で死去した。
三村晴山(1800-1858)みむら・せいざん
寛政12年生まれ。三村養益の子。名は金斎、諱は養実。別号に楽真斎がある。文化8年、12歳で木挽町狩野家に入門、伊川院栄信や晴川院養信に学んだ。早くから才能を発揮し、14歳で松代藩の絵師となり、晴川院のもとで江戸城の障壁画制作などの幕府の御用もつとめた。一説には、八代藩主・真田幸貫の密命を受け、絵師という立場を利用して幕府内の動きをさぐる役目をしていたと伝わっている。そのためか作品の数は少ない。安政5年、59歳で死去した。
長野(6)-画人伝・INDEX
文献:松代藩の絵師-三村晴山、長野県美術全集 第1巻、北信濃の美術 十六人集、信州の美術、長野県美術大事典