経歴や作品が残っている延岡藩の御用絵師として、最も早い時期に名前が出てくるのは佐藤周鱗斎(1776-不明)である。周鱗斎の持ち物だった『狩野家累世所用画法』から狩野派の画を学んだことがわかるが、その習得の時期や方法はわかっていない。佐藤家は、養子の竹皋、その子・小皐まで3代続いた絵師だった。
周鱗斎の弟子には、片岡米山(1811-1897)がいる。米山は延岡の生まれではないが、12歳のころから周鱗斎に学び、のちに全国を遊歴、明治9年に帰郷して、八幡神社の宮司をつとめながら絵を描き、主に花鳥画を得意とした。
佐藤周鱗斎(1776-1838)
安永5年生まれ。延岡藩御用絵師。名は喜三郎、義雄。習得の時期や方法はわからないが、狩野派の画法を学んだと思われる。養子の竹皐、その子の小皐も絵を描いた。
佐藤竹皐(1819-1882)
文政2年延岡恒富生まれ。名は龍平。佐藤周鱗斎の養子。江戸に出て高久靄崖に師事し、主に山水画を学んだ。天保14年の靄崖没後は岡本秋暉に師事した。明治15年、64歳で死去した。
佐藤小皐(1861-1928)
文久元年生まれ。名は鶏太郎。明治13年に上京して渡辺小華や滝和亭に師事した。第2回内国絵画共進会に出品。明治19年に東京蠶業講習所を卒業し、延岡出身の宮崎の製糸場を経営していた遠山克太郎の勧めで、宮崎に移住した。大正9年北日本文明重要品博覧会で三等賞銅牌、全国大家名画監査会で二等賞銀牌を受けた。また、大正13年からは佐土原の根井南華の指導をした。昭和3年、69歳で死去した。
片岡米山(1811-1897)
文化3年日知屋原町生まれ。名は大学。泰雲亭米山と号した。文政6年から佐藤周鱗斎に師事し狩野派の画法を8年間学んだ。その後全国を遊歴し、明治9年に帰郷、富高新町の稲荷社の神官附属となり、それからは神職として過ごした。日向市内に作品が何点か確認されており、正念寺には天井画が残っている。明治30年、87歳で死去した。
宮崎(9)-画人伝・INDEX
文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展