宮崎の美術の中で、まず最初に狩野派の絵師として登場するのが、都城藩の白谷卜斎(不明-1658)である。白谷卜斎は都城領主・北郷忠能に仕え、文録の頃、京都に出て狩野宗家に学んだ。卜斎の作品「豊太閣図」は、宮崎県に残る日向国の絵師の一番早い時期の作例とされているが、原画は西南戦争で焼失したとみられており、その前に幕末の絵師・長峰探隠(1785-1861)が虫食いまで丹念に模写したものが伝わっている。
この原画は卜斎が師に従って工事中の伏見城内の襖絵を描いていたとき、たまたま秀吉の巡視があり、その際こっそり写生した(あるいは秀吉がちょっと立ち止まり写生させたとも)というもので、その後の描かれた多くの太閤像は、この時の卜斎の絵がもとになっているという。
模写を描いた長峰探隠は都城島津家の記録方絵師で、江戸に留学して狩野探淵に入門し、師の探の字を与えられた。都城の画家としては、江戸時代を通じて特筆される存在だった。
白谷卜斎(不明-1658)
名は利光。大炊左衛門と称した。文録年間に京都で狩野宗家の光信に学んだ。一説には狩野興以の弟子だったとされる。都城領主の北郷家12代忠能、14代忠亮、15代久直、16代久定に仕え、都城の中尾口に住んでいた。明暦4年死去した。
宮崎(1)-画人伝・INDEX
文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展